ひとつ前の当ブログで書いたように、『赤ちょうちん』(1974 藤田敏八監督)で脚本を書いた中島丈博さんが勝手に改変されたことに腹を立て、藤田敏八監督に対し「シナリオ改悪魔!」とディスった貼り紙を撮影所の食堂に貼って抗議しました。

ちなみに藤田監督と喧嘩したジェームス三木さんも中島丈博さんも後に映画監督をなさっています。『善人の条件』(1989 ジェームス三木監督)、『郷愁』(1988 中島丈博監督)、『おこげ』(1992 中島丈博監督)です。やはり、自分の脚本を監督に変えられた恨みや欲求不満が、いつか自分の思い通りに映像化したいという方向に向かわせるのでしょうか。

脚本家と監督といえば、『仁義なき戦い』(1973 深作欣二監督)のシナリオを笠原和夫さんが書きあげたとき、笠原さんは監督には工藤栄一さんがいいと思っていたそうです。他に中島貞夫監督の名前もあがる中、俊藤浩滋プロデューサー(藤純子さんの父上)が深作さんを強く推してきて、笠原さんは「深作が何と言ってきても俺は一語一句直さない」という条件を出して了承したそうです。

というのは、以前に『顔役』(1965 石井輝男監督)という笠原和夫さんが書いた脚本を、当初深作欣二さんが監督することになっていて、深作さんが脚本直しをしたとこ、ろ笠原さんと意見が合わず、とうとう降板し石井輝男監督に変更になったという経緯があったのです。

笠原さんは一本の脚本をかくのに徹底的な調査をすることで知られています。『映画脚本家・笠原和夫 昭和の劇』(太田出版)にその取材ノートや資料の一端が出ていますが、圧倒させられます。

特に『仁義なき戦い』は、菅原文太さんの演じた主人公・のモデルである美能幸三さんにも会うなど、徹底取材を重ねて書き上げたのです。笠原さんにしてみれば、渾身の脚本をまた引っ掻き回されてはたまらないという思いだったのでしょう。それを聞いた深作さん、「脚本通りに撮る」と約束し監督に起用され、あの名作が誕生したのです。脚本家と監督のヒリヒリした緊張関係、それも傑作を生みだす要素なのかもしれません。  (ジャッピー!編集長)