続いて、『アメリカ・インディアン悲史』(藤永茂さん著/朝日選書)について書きます。

教員時代に同僚にすすめられて読んで以来、権力というものがどんなことをするものかを考えるときには読み返すことにしているのです。

コロンブスの「発見」以後、やって来た白人たちは、来訪者に親切で「疑うことを知らない」先住民たちにつけこみ、モノでつって土地を奪い、ウイスキーを持ち込み、酒を持たなかった彼らを酔わせて不当な契約で騙し(1エーカーを1セントなんて実例もあるそうです)、土地を収奪したのです。勝手にチェロキー族の土地を区分して賞品にした「チェロキー・ランド宝くじ」なんてのを発行までしているのです。さらに、一部の部族を懐柔し、先住民全体が団結しないように分断し、圧倒的な武力で制圧し……と手を緩めることはありませんでした。

先住民の人たちの土地を奪い、まったく生産性の低い荒地に「居住地」の名前をつけて移動させますが、それでも足りず、「約束」を破り続けさらに過酷な状況に落とし込むのは「全滅」させようとしたとしか思えません。

これは、白人たちが「自分たちが酷いことをやっている」という自覚が多少なりともあったからだと思います。自覚ありと言っても、先住民を「人間」と見ているわけではありませんから反省や自己否定には向かいません。鳥や獣を乱獲して「絶滅」させたぐらいの「後ろめたさ」でしょう。その「後ろめたさ」を消すために、先住民の「存在」そのものを消そうとしたのではないかと思います。人間というのは都合の悪いことは「なかったこと」にしたがるものですからね。目の前に先住民が残っていたら、自分たちの醜悪な記憶が蘇ってくるので、全滅させて「歴史から消去」したかったのではないかと思います。それほど、先住民に対する非道は執拗なのです。

もちろん、そこには「生き残り」がいると「いつか復讐される」という恐怖心も作用したと思います。森に潜む先住民兵士たちに脅え、森を広範囲にわたって焼き払ったということもあったそうです。ずっと後に「ベトコン」のゲリラ戦法に苦しめられ、枯葉剤を巻いたのを予見するようです。

そういえば、この『アメリカ・インディアン悲史』の第1章のタイトルは「ソンミ」です。インディアンの虐殺からベトナム戦争に連なる「アメリカ」が内包する残虐性を指摘しているのです。そういう意味では『ソルジャー・ブルー』(1970 ラルフ・ネルソン監督)と同じ視線から入っているといえます。(本の中にも『ソルジャー・ブルー』は出てきます) (この項、続く) (ジャッピー!編集長)