続いて、当ブログ2022年1月17日に書いた「“闘将”というイメージを作りあげ、チームをまとめあげた星野仙一監督」を以下に再録します。

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ひとつ前の当ブログで書いたように、1974年、ついにジャイアンツの10連覇を阻んだ中日ドラゴンズの優勝、その瞬間にマウンドで吼えた星野仙一投手の姿が今も忘れられません。

気迫あふれる投球を見せた星野仙一投手ですが、同時代の他チームのエース、江夏豊さん(タイガース)や平松政次さん(ホエールズ)といった投手に比べると、すごい剛速球やこれぞという変化球があったわけでもありません。(テレビで観ているだけでも江夏さんのスピード、平松投手のシュートは凄かった!) それをカヴァーしていたのは、やはり気迫を前面に出すスタイルだったと思います。スライダーを活かすために内角を攻めるのは、ある意味、打者に気後れしてはできません。ジャイアンツ戦に35勝もしたのはその闘争心がより以上にボールに乗り移ったからでしょう。既に書いたように、「巨人にフラれた」という悔しさと恨みが星野さんを沢村賞投手に押し上げたのだと思います。

そんな「燃える男」星野投手でしたが、意外なことに現役時代に「退場」宣告を受けたことはありません。いつだったか、ジャイアンツ戦でドラゴンズの攻撃、高木守道選手がホームに走るところを関本四十四投手がボールの入ったグラブで高木選手の顔にタッチしたことがありました。まるでボクシングのようなタッチに高木選手が激怒し文句をつけると、関本投手が謝るどころか応戦し乱闘になってしまいました。そのとき、「あがり」でベンチにいた星野さんがアンダーシャツに足元はサンダルで飛び出してきたのははっきり覚えていますが。

星野さんの「退場」はすべて監督になってからです。当時広島の伊勢孝夫コーチにキックをかましたり、友寄審判に体当たりしたり、時には王貞治監督相手に乱闘寸前になったこともありました。選手時代に「退場」のない星野さんが監督になってから何度も「退場」処分になったのは、監督として選手を守る立場ということもあるでしょうが、「チームに活を入れる」という一種のパフォーマンスだったかもしれません。マスコミやファンに対して「闘将」というイメージを作ることでチームに緊張感をもたらし、まとめあげたのだと思うのです。

いづれにしても、監督として3球団(中日、阪神、楽天)で優勝を果たしたのは史上3人目、他に三原脩さん、西本幸雄さんしかいませんから「名将」といっていいでしょう。現役時代のピッチング同様、管理野球をするとか、すごくデータ分析に長けていたとか、アイデアあふれる奇策を試みるとかずば抜けた能力があったわけではありません。それでもこれだけの実績を残したのは、マスコミやファンも含めて「闘将」というイメージを定着させて選手に緊張感をもたらし、チームをまとめあげていく「人としての魅力」だったのだと思います。

そういえば、星野さんが亡くなった2018年、西武ライオンズのドラフト1位・斉藤大将投手(明治大学)が入寮する記事で「人間力」と書いた色紙を持っている写真が出ていました。何でも明大のかつての名監督・島岡吉郎さん受け継がれてきた言葉だそうです。なるほど、星野さんはしっかり島岡イズムを継承していたわけですね。やはり昭和の匂いのする名監督です。

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その星野監督にはっきりと反対意見を言って、2軍投手コーチを辞任した稲葉光雄さんもたいしたものだと思います。(6つ前の当ブログをお読みください)  (ジャッピー!編集長)