続いて、当ブログ1月17日に書いた「巨人の10連覇を阻んだ、1974年ドラゴンズ優勝のマウンドで吼えた星野仙一投手」を以下に再録します。

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ひとつ前の当ブログで、1968年のドラフト会議について書きました。

星野仙一さんは「法政の田淵幸一さんを外したら、君を指名するから」と、事前に巨人側から言われていたのですが、フタを開けてみたら巨人は島野修さんを指名。星野さんは「ホシとシマの間違いじゃないのか!」と嘆いたというのは有名なエピソードです。

その島野修さんは巨人で1勝しかできず、阪急に移籍しますが1軍で登板することなく引退。その後は阪急ブレーブスのマスコット、ブレ―ビーの着ぐるみの中に入って別の形で野球ファンを楽しませましたが、2010年に59歳という若さで亡くなってしまいます。

そして、星野仙一さんも2018年1月4日に亡くなりました。闘病されていたことも知りませんでしたし、前年、ご自身の「野球殿堂入り記念パーティ」でもお元気そうに見えたので、訃報を聞いたときはビックリしました。70歳というのもあまりにも早すぎます。

星野仙一さんというと「闘将」と呼ばれた監督としてのイメージが強い方も多いかと思いますが、僕にとってはまずマウンドで吠えているピッチャーの姿が浮かびます。まさに「燃える男」でした! 物心ついてからジャイアンツしか優勝していなかったので、子供の頃から反権力志向?が強かった僕は必然的にアンチ巨人となりました。

9連覇まで続き、ジリジリしていた時についに巨人優勝を阻んだのが中日ドラゴンズで、優勝を決めた試合で完投勝利をあげた瞬間、マウンドで仁王立ちになった星野投手、そこに突進して抱きついた木俣達彦捕手のシーンは今でもはっきりと頭に焼き付いています。(たしか、このときの「激突」で星野さんはちょっとどこか痛めて日本シリーズは万全じゃなかったと記憶してます) この日はダブルヘッダー(大洋戦だったかな?)で、第1戦は左腕の松本幸行投手が勝利をあげて引き揚げるときに記者に「さあ、いよいよだね」と話したのも覚えています。松本投手は軟投派でキャッチャーからボールが返ってくるやいなや投球に入るようなスタイルで、バッターに考えるヒマを与えずかわす感じで翻弄しました。星野さんは真っ向からバッターに立ち向かう投球で、この2トップの投手が対照的でした。(松本投手については、ふたつ前の当ブログも参照)

特に星野さんが巨人戦となると異様なまでに気迫をむき出しにしていたのは、1968年のドラフト会議で「ジャイアンツにフラれた」の悔しさがあったのでしょう。

また、当時の与那嶺要監督も「ジャイアンツ憎し」という気持ちが強かったといいます。現役時代に巨人で大活躍しながら晩年は切り捨てられるように放出されてしまった与那嶺さん、巨人の顔として君臨した川上哲治さんへの怨みは深かったそうで、中日ベンチで采配をふるいながら「哲の野郎……」と呟いていたといいます。そんな監督と星野投手のジャイアンツへの怨嗟が結実した1974年のドラゴンズ優勝は本当にスカッとしました!  

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さらに次のブログに続きます。 (ジャッピー!編集長)