4つ前の当ブログで、1968年秋の「第4回ドラフト会議」でジャイアンツから指名されると思った星野仙一選手(明治大学)が外されたことに触れました。

このエピソードについて、当ブログ2022年1月17日に「1968年ドラフト会議、星野仙一投手が巨人戦に闘志を燃やす切っ掛けになった?」を書いていますから、以下に再録します。

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このところの当ブログで、『闇を裂く一発』(1968 村野鐡太郎監督)に映し出された「東京スタジアム」や、401奪三振の記録を作った高卒2年目の江夏豊投手といった、1968年(昭和43年)のプロ野球に関して書いています。

この年に行われた「ドラフト会議」は大豊作だったことで知られています。そして、明治大学の星野仙一投手が運命に翻弄された有名なエピソードがよく語られます。

当時の「ドラフト会議」はクジ引きによって指名順位を決めていましたが、①東映②広島③阪神④南海……巨人は⑧、中日は⑩でした。まず東映が亜細亜大学の大橋譲選手(のちに阪急に移籍した名ショート)を指名すると、広島が山本浩司(のち浩二)選手、阪神が田淵選手、南海が富田勝さんとこの年の目玉だった「法政三羽烏」が連続して指名されました。

星野仙一さんは、事前に巨人のスカウトから「1位は田淵君で行くが、田淵君が残っていなかったら君を指名するよ」と言われていたそうです。ですから、田淵さんが阪神に指名された、この時点で星野さんはジャイアンツ指名を確信したでしょう。それが……熱烈にジャイアンツ入りをが希望した法政大学の田淵幸一さんが涙を流し、星野さんは「星と島の間違いじゃないのか」と呆然となったのです。

しかし、希望通りに田淵さんが入団したら森昌彦さんを押しのけレギュラー捕手になり王貞治さんとホームラン・コンビになっていたか、星野さんが巨人に指名され入団していたらどんな投手になり、どのくらいの成績を残していたのか、それは誰にも分かりません。ひとつ言えるのは、星野投手が対巨人戦で見せたようなあれほどの闘志は生まれなかったでしょう。これは、のちに江川卓投手獲得のためにトレードに出された小林繁投手の巨人戦における鬼気迫る投球にも通じますね。

一方、巨人が1位指名した島野修投手はプロ通算1勝しかできず、阪急に移籍し、引退後はマスコットのブレ―ビーの着ぐるみの中に入って別の形で野球ファンを楽しませました。ドラフトという運命のドラマ、時に自分の思った通りにいかなくて嘆いたり悔しい思いをもたらしますが、その「不運」という試練を乗り越える闘争心を与えてくれるのも事実ですね。

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次のブログに続きます。(ジャッピー!編集長)