このところの当ブログで、『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2021 エメラルド・フェネル監督)を取り上げました。

この『プロミシング・ヤング・ウーマン』というタイトルは原題どおりですが、「プロミシング」とはどういう意味かというと、「将来が期待される」という形容詞。実は、このタイトルには映画のテーマに関わる意味がこめられています。

というのは、この映画はキャシー(キャリー・マリガンさん)が親友を複数で取り囲んでレイプした男たちに復讐する物語ですが、この発端となったレイプは実際に起こった事件をモチーフにしています。

2015年にスタンフォード大学の構内にある寄宿舎で男子学生が22歳の女子学生をレイプした事件です。女子学生を酔わせ、酩酊状態にして犯すという計画的で悪質な行為です。しかし、裁判で求刑の禁錮6年に対し、判決が禁錮6か月というちょっと信じられない減刑になったのです。この男子学生が水泳部のスター選手だったということが、大甘の判決になったのだろうと言われました。

このとき、裁判官が大幅な「減刑」の理由として「前途有望な若者の未来を奪ってはならない」と言ったのです。このときの「プロミシング」をタイトルに持ってきて「ヤング・ウーマン」につけることで、「女性の方だって”前途有望”なんだ!」というメッセージをこめているのだと思います。

「ブラック・ライヴス・マター」という言葉もいろいろな日本語の訳がつけられましたが、「黒人の命だって大切だ」「黒人だって同じ人間なんだ」という主張です。僕はこの『プロミシング・ヤング・ウーマン』というタイトルには、同じように「女性の人権を軽視する」「女性をモノ扱いする」男性優位社会への強烈なプロテストだと思いました。

だから、この映画の中で「傍観者」を糾弾するのは、こういった不公平な「社会構造」を放置している全ての人へ向けられているのです。アソ―太郎やモリ喜朗といった連中を「しようがないなあ」とスルーしてきた、こういう空気が男性優位意識を温存させてきたのです。「男女格差」が埋まるわけないのです。

上に書いたスタンフォード大学の事件に似たような事件は日本にもありました。2016年に「東京大学」の学部生、大学院生が女子学生を酔わせ集団でワイセツ行為に及んだのです。この事件は姫野カオルコさんが小説にしています(スゴイ作品です!)が、この東大生連中のエリート意識に裏打ちされた女性蔑視のおぞましさは吐き気を及ぼします。こういう連中が出てくるのも、日本に蔓延る「男性中心」の価値観が根深いからなのです。(ジャッピー!編集長)