ひとつ前の当ブログで、僕は「空いた時間」を作らず「埋めて」いたということを書きました。

休みの日も家で体を休めるということはなく、予定で埋めていました。映画を観に行くのが趣味なのですが、映画を観ている最中にも、そこを出た後にハシゴして次に行く映画館の時間やルートのことを考えて、目の前の映画に集中できない、なんてこともありました。

長距離通勤をしていた頃、本を読み終えてしまい時間が余ってしまい「途方に暮れた」話をひとつ前の当ブログで書きましたが、つい一昨日に同じようなことがありました。

僕の母親が認知症になり、静岡県の施設にいるので時々会いに行くのです。ゴールデンウイーク中は混雑で新幹線のチケットがとれないので、連休が明けてから行ってきました。「母の日」も近いので、ささやかなプレゼントも持ってこの時期に行くことは決めていました。

面会時間の予約に遅れるとまずいので、いつも「行き」は新幹線を使いますが、「帰り」は鈍行を乗り継いでいます。電車賃の節約ということでそうしているのですが、東京に戻ってくるまで5時間近くかかってしまうので車内で本を読むことにしていました。スマホも持っていないし、耳にイヤホン?つけて音楽を聴くこともしないので、列車内で出来ることは本を読むことぐらいしかありません。

ところが、今回、「行き」で読み終えてしまい、帰りの鈍行で読む本がありません。しかし、母の施設がある小さな町は書店がありません。駅の売店にも読みたい本はないし、「本無し」で鈍行に乗りこんだのです。5月2日に聴いた『トノバン 音楽家・加藤和彦とその時代』で北山修さんがおっしゃっていた「“間”の時間が大切」という話を思い出したこともあります。何もしないで5時間弱、列車で過ごそうと思ったのです。

それで、車窓から流れていく風景を眺めたり、いつの間にかウトウトしたり、ボンヤリした時間を過ごしました。ボンヤリとはいっても、もちろん、頭の中ではいろいろな思念がわきあがるわけです。

母に会った帰りなので、「母子家庭」で女手ひとつで育ててくれたこと、僕の子ども時代の普段思い出さないような場面が浮かんできました。僕が仕事にかまけていなければ、もう少し早く母の認知症に気づいてあげれたのではなかったかという悔恨、さらに僕の知らぬ母の青春時代に思いを馳せたりもしました。そんな「自分」の記憶と思念に浸ることができて、ある意味「デトックス」というか、豊かな時間は過ごせたという気持ちになれました。自分が人生のまとめの時期に入っているというだけなのかもしれませんが。(ジャッピー!編集長)