このところの当ブログで、 ゴールデンウイーク中に聴いたニッポン放送の特別番組『トノバン 音楽家・加藤和彦とその時代』(5月2日オンエア)のことを書いています。

加藤和彦さんのドキュメンタリー映画が5月末に公開されるのに合わせた特集番組で、フォーク・クルセダース以来の盟友・北山修さんがロング・インタビュー(聞き手・上柳昌彦アナ)に聴き入りました。

北山修さんの話の中で、今の時代に「間(ま)がない」ことに危惧されていました。みんなスマホを見つめ、新しい情報を探し、自分の「間」を埋めようとしていることに躍起になっている。とにかく「解答」を得ようとする風潮が異様だというのです。

本当にそうだと思います。電車に乗ると、前の座席列に座った人が全員(7~8人)スマホを操作したり、見入っているなんてことはザラですよね。たまにスマホを見ていない人を見かけると「珍しい」と思うほどです。僕はスマホを持っていないので、皆そんなに何を見ているのかなと不思議です。何だか、スマホに従属させられているような感じさえします。

北山修さんは加藤和彦さんについて「彼も“間”を味わったり、かみしめたりすることが苦手な人だったのかなあ」と語っていました。だから、常に「新しい音楽」を作ることに追われ、遺書に「生きる場所がない」なんてことを書いたのかもしれません。北山さんはフォーク・クルセダース

で『帰って来たヨッパライ』をやったように「関西出身の僕らは元々、お笑いの要素があって、同時に『イムジン河』や『悲しくてやりきれない』のようなシリアスなものをやって、両面性を持っていた。なのに、加藤はそれを統一しないといけないといけないと思い始めていたんじゃないかな……」とおっしゃっていました。両面性あっていいし、冗談音楽をもう一度やればいいのにと北山さんは思っていたそうです。

心に隙間ができたり、ポッカリ穴が空いたときにそれを味わったり、考えたりする時間が実は大事なんだということです。北山さんは加藤和彦さんと「空しいよね。でも人生ってそういうものだよな」と語り合えれば良かったと最後におっしゃっていました。無念だと思います。あの時、こう言っておけば、もっと話をしておけば……そんな悔恨がないように人との関わりを大事にしなければと思います。(ジャッピー!編集長)