ひとつ前の当ブログで、ゴールデンウイーク中の5月2日にニッポン放送から放送された『トノバン 音楽家・加藤和彦とその時代』という特別番組を聴いたことを書きました。

これは同名のドキュメンタリー映画(5月31日封切)の公開記念の特集で、フォーク・クルセダース以来の盟友・北山修さんのインタビューが大変印象に残りました。

フォークル解散後、「加藤和彦と北山修」名義でリリースした「あの素晴らしい愛をもう一度」の歌詞にある、♪広ーい荒野にポツンといるような~ というのが、奇しくもその後の加藤和彦さんを思わせるものになっていた……という話も出てきました。精神科医でもある北山修さんが加藤和彦さんの自殺を防げなかったこと、心の病をどうして治せなかったのかということは「私の永遠の空しさ」と語っておられ、その心中の辛さが伝わってきます。

ただ、精神科医であると同時に「友人」でもある北山修さんには限界があったそうです。というのは、友人や家族はどうしても「情」がからむので、「治療にあたれない」そうなんです。患者の方も心を裸にすることができないのだそうです。それぐらい、自分をさらけ出すことは難しいのですね。特に、加藤和彦さんは音楽の才能もあり、カッコよい自分が「弱みを見せる」ことはなかなかできなかったかもしれません。

北山さんも「加藤の場合は、主治医の前でもカッコつけていたかもしれない」ということも言っていました。僕なんかも、加藤和彦さんは音楽も常に最先端で、ファッションもオシャレで、スマートで優しそうで、何てカッコいい人なんだと思っていましたが、その優雅なカッコ良さは白鳥のように水面下の見えない所では必死に水をかいていて、それをどうしても見せないようにしていたのかなという風に感じてしまいました。

北山さんがおっしゃったように、「落語だって、同じ話でも演者が歳を重ねればまた違う味が出てくるもの。そのように、新しい音楽を作れなくたって昔の曲をまたやれば良かったじゃないか」と思います。でも、それができなかったのがまた、加藤和彦さんであり、僕らが見ていた彼のカッコ良さだったのかもしれません。それでももっと生きていてほしかったなあ。(ジャッピー!編集長)