ひとつ前の当ブログで、村上春樹さんの長篇『街とその不確かな壁』(新潮社)と『PERFECT DAYS』(2023 ヴィム・ヴェンダース監督)はどちらも「影」が重要なモチーフになっていると書きました。

そして、僕自身も振り返ってみれば、「自分」を生きてきたつもりが実は「影」だったんじゃないかというようなことを思ったりもしました。「影」なのに「自分」のように演じていたかのような。しかし、考えてみれば、そもそも「自分」っていうものがあるのか。「自分らしさ」とか「個性」っていう言葉を使うが、本当にあるのでしょうかね?

妙に覚えていることがあります。僕が教員をやっていて、ある年、高校1年のクラスの担任をしていました。日直が「学級日誌」を書くことになっていて、「感想」欄にいつも何も書かないある男子生徒が年度終わり間近の3月に、「書き納め」?のつもりなのかたっぷり書いていたのです。その内容は以下のようなものでした。

「個性的」は良くて「画一的」は良くないと言われるが、そもそも「個性」がその人を造るのではなく、その人がやってきたことが「個性」になっていくのではないか。つまり、俗物に染まるという行動もその人の考えに基づいたものであり、その考えに至る過程は人それぞれなはず。しかし、それを人は「画一的」と言い、「自分は個性がないんだ。個性を作らなければ」などと考えてしまい、逆に自分を見失う人も少なくないのではないか……といったものでした。

「進路学習」なんかで「自分」の適性を考えてみようとか言った覚えもあるし、「自分探し」という言葉もよく使われた頃でした。でも、よく考えると、高校生やそこらで「個性」なんてまだ不定形で当然だし、たしかに「個性」が見つからない自分に焦りを感じる人もいただろうなあ。

そこから色んな人に出会い、色んな本を読んだり、様々な影響を受け「作り上げられる」のがその人の個性であり、本当の「自分」という核の部分なんてのは実は無いのかもしれません。空っぽの核の周りを十二単衣のように重ねられたものが「個性」と見えるだけなんじゃないかと思います。そういう意味では、高校生ぐらいでは「個性」を作り上げるにはまだまだ「経験」は不十分ですからね。

つまるところ、みんな実は「影」であって、「影」を本物と思いこんでいるだけかもしれません。僕も30年以上、教員をやっていましたが辞めてしまえば、とてもそれが本当の「自分」だったとは思えません。何だか長い幻を見ていたような……。あれは「影」だったのかなあと考えてしまいます。この歳になってもまだ本当の「自分」が分からないし、表面に重ねたものを剥いでいったら結局、そこには何も無い……そんなものなのかもしれません。(ジャッピー!編集長)