ひとつ前の当ブログで、「忠犬ハセ公」ことハセ浩・石川県知事が「能登地震」の被災地入りしたのは発生から2週間後の1月14日だったということを書きました。こういう冷酷な人物が「北陸新幹線」延伸開業のイベントで満面の笑みを浮かべていることに強烈な違和感をおぼえます。

「防災服」を着こんでいたキシダ文雄も実際に「被災地」入りしたのは、同じ14日。それも、珠洲市にほんのちょっと寄っただけですぐヘリコプターで帰ったのです。もっとも大きな震度7を記録した志賀町には立ち寄ることもなく、「志賀原発」の再稼働の方針は変わらないと言い放っています。地元の理解を得ながらすすめたいと言いながら、被災地訪問はスルー、この男には人間の血が通っているのでしょうか。

地震発生のすぐ後、テレビのニュースで珠洲市だったと思いますが、お年寄りの方が「私たちを見捨てないでください」と訴えているのを観ました。家も倒壊し、物資もなく、寒い中に取り残されている状況での本当に切実な声です。このとき、思い出した映画があります。『私は忘れない』(1960 堀内真直監督)です。

この『私は忘れない』は有吉佐和子さんの同名小説の映画化です。(僕は原作は未読) 沖縄の南にある離島「黒島」に君雄(小坂一也さん)という新卒教師が赴任してきます。一教室に全学年の数人が収まるような小さな学校で、校長(佐野周二さん)、その奥さん(水戸光子さん)は先生兼産婆、教頭の中村是好さんは医者も兼ねています(といっても、本格的治療はできない)。

1960年=昭和35年といえば、「東京五輪1964」を控え、高度経済成長まっしぐらの時期です。しかし、この島には水道も電気も通っておらず、テレビもありません。たまたま東京から旅行で来ている万里子(中圭子)も君雄に協力して教室で生徒たちに接しますが、「電車」を知らない子どもたちに教えるのに苦労します。「テレビでもあればなあ……」と万里子がぼやくと、子どもたちが「テレビって何?」と尋ねるのです。当時の東京と地方の格差は大きかっただろうし、さらに「離島」となると、これが現実だったのでしょう。

映画のラスト、万里子が東京に帰るとき、佐野周二さんが「ひとつお願いがあります。帰っても、この島のことを忘れないでください。同じ日本の片隅にこういう島があるということをひとりでも覚えている人がいるのは嬉しいのです」と言うのが印象的です。このセリフを「能登震災」で思い出したのです。「取り残される」人や地域を生みださないことが「政治」の役割だと思いますが、どうもこのところの日本はそこが欠けているように思います。(ジャッピー!編集長)