ひとつ前の当ブログに続き、ドキュメンタリー映画『教育と愛国』(2022斉加尚代監督)について当ブログで過去に書いたものを再録します。2022年5月19日に書いたもので、タイトルは「”アベノドウトク”は資源としての子どもを生産したいのか」です。

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ひとつ前の当ブログで、最近観た『教育と愛国』(2022 斉加尚代監督)のことを書きました。

このドキュメンタリー映画の冒頭、小学校の教室で「道徳」の授業をしているところが映し出されます。次のうち正しいのはどれでしょう?と問いに三択の選択肢が提示されます。「おはようございます」の挨拶とお辞儀はどっちを先にするかという問いで、「お辞儀をしてから挨拶を言う」、「同時にする」、「挨拶を言ってからお辞儀をする」の三択。思わず失笑してしまうような、こんな「形」に拘ることを「道徳で教えましょう」と、エライ人たちが会議したり、検討して決めたのかと思うと、暗澹たる気持ちになります。

どうしても挨拶や礼儀が大事だということを教えたいなら、それは何故、大事なのかという所からでしょう。挨拶やお辞儀というのは、当たり前ですが「相手あっての」ものです。つまり、「相手」がそこにいることを認めているということです。対峙する相手にそれを伝えるのが「挨拶」であり「お辞儀」です。逆に言えば、「挨拶」や「お辞儀」をしないことは「相手を無視」することと同じです。その相手は「私には関係ない」と切って捨てることです。つまり、「相手を尊重する」ことを放棄しているわけです。だから「挨拶」や「お辞儀」をしましょうという風に伝えるべきでしょう。そこから、他者とか異文化とかを尊重したり、理解する心の習慣が育つかもしれません。

それを「挨拶」と「お辞儀」、どっちを先にすべきなんて些末な「形」に拘っているというのは、とにかく「あるべき形」、「鋳型」に入れたいというのが、アベの「教育基本法」の骨格にあるからでしょう。とにかく、自分で考えることなく、上が決めた「形式」に言いなりに従う子どもを生産したいのでしょう。ひとりひとりの子どもに向き合うよりは、子どもを「資源」という風に見ているのです。こういった骨格に基づいた教育が「愛国心」とくっつけば、行きつく先は明白です。

多様性とか言われて久しいけれど、実際はそれと真逆の方向に行っているように思えます。それぞれは些末なことだけれど、ある一つの価値観の方を向かせようという動きが、巧妙に進行しているのです。

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全く、アベ晋ゾーという奴はどの口で「道徳心」なんて謳っていたのでしょう。「道徳」の授業をやるなら、アベが国会でウソついたり、国民を「こんな人たち」と呼んでいる場面を見せて、こういう人になってはいけませんよと教えるのがいいと思います。(ジャッピー!編集長)