ひとつ前の当ブログに書いたように、監督志望で東映に入社した日下部五朗さんですが、「体のデカさ」から上司の岡田茂さんに「プロデューサー」に回されます。のちにプロデューサーとして『仁義なき戦い』シリーズ(1973~1974 深作欣二監督)など実録路線という鉱脈を掘り出します。人間の運命とは分からないものです。

日下部さんは最初、京都撮影所の配属になり、京撮独特の閉鎖性、スタッフのイジメにも遭ったそうです。何しろ巨体なので、「のったり」歩いているように見えて、しかも大学出というだけでも、古参の映画職人たちには生意気に見えたのでしょう。しかし、目の回るような忙しさの中での働きぶりで認められていきます。また、「東映」という会社の社風が日下部さんには合ったようです。「住み心地」が良かったと回想しています。

それは、「東映」が元々満映から引き揚げた人たちが中心となって作られた「東横映画」が母体になって、右翼から共産党、そっちの筋(今なら「反社会的勢力」というのかな)まで雑多な人々が一緒くたになっていたということが大きいでしょう。東映の基礎を築いた名プロデューサー、マキノ満男さん(マキノ雅弘監督の実弟です)が「共産党も何も関係あるかい! わしらは大日本映画党や!」と豪語したという話は、当ブログ1月12日に書いた赤狩りでハリウッドから干されたダルトン・トランボさんを起用し続けたフランク・キングさんと重なるところがあります。ともかく、面白い映画、儲かる映画を作るという一点だけハッキリしているマキノ満男主義は、のちに「不良性感度」映画の総司令官となる岡田茂さんに着実に引き継がれたのでした。

何しろ、岡田茂さん、東京大学卒のインテリでありながら、「こうも客の入りが悪いと女と×××する気もおきんのう」と、社内で大声で言っていたそうです。今ならコンプライアンスに引っかかりますかね。

そんな岡田さんの下で長らくプロデューサー修業をした日下部さんですから、どうすれば自分の企画を通してもらえるか切りこみ方を熟知しています。実録路線も下火になり、その後。時代劇復活も短命に終わり、宮尾登美子さんの原作を映画化しようと、日下部さんは企画書を出しますが、「話が暗い」とボツにされてしまいます。そこで、日下部さん、岡田社長に「仲代達矢さんがやる高知のヤクザは自宅の一階に本妻、二階に妾を二人置いて、上行ったり、下行ったりして、やりまくるんですわ」と言うと、岡田さん、目を輝かせて「それ、面白いやないか!」とあっさりOKが出たのです。こうして出来たのが、夏目雅子さんの「なめたらあかんぜよ!」で有名な『鬼龍院花子の生涯』(1982 五社英雄監督)です。(この項、続く)(ジャッピー!編集長)