ひとつ前の当ブログに書いたように、日下部五朗さんは監督志望で東映に入社しますが、そのガタイの良さを見た岡田茂さんの「君はプロデューサーの勉強をしろ」の鶴の一声で、製作進行に回され、のちにプロデューサーとなります。

日下部さんが入った頃、東映は「時代劇」全盛でしたが、その後、「任侠路線」に移行します。高倉健さんや鶴田浩二さん、藤純子さんらのスターによる映画が量産されます。しかし、それも10年経って下降線をたどっていました。そして生まれたのが『仁義なき戦い』(1973 深作欣二監督)を嚆矢とする「実録路線」です。

任侠路線に代わるものを模索していた日下部さん、他の映画、たぶん飯干晃一さん原作の『やくざ対Gメン 囮』(工藤栄一監督)のことと思われます、のことで飯干晃一さんのお宅を訪れました。そこで、飯干さんが預かっていた、美能幸三さんが刑務所の中で書いた手記の原稿を見せられたのです。飯干さんはそれを基に「仁義なき戦い」を書くのですが、その前の原型といえる美能さん手書きの原稿を日下部さんは見たのでした。

さっそく、日下部さんは岡田茂さんに相談すると、岡田さんは広島出身だけあって、出てくる中心人物も知っていてノッてきたそうです。そして、日下部さん、出所したばかりの美能幸三さんに映画化の許可をもらいに行くことになりました。(美能幸三さんが映画では広能昌三となり、菅原文太さんが演じました) 美能さんは既にカタギになっていましたが、当時この手記を書いたことで身辺が危ないという緊張した空気があったそうです。そんなところに大男の日下部さんが現れたものだから、美能さん、対抗する組から刺客が送りこまれたと身構えたというエピソードがあります。ちなみに、美能さんはカタギになって「葬儀社」を経営し、成功をおさめました。

そして、映画化をしぶる美能さんに「自分を裏切った親分に腹が立って書いたんでしょ! 死んだ若い衆のために書いたんでしょ! ならとことんやりましょうよ。全国のスクリーンでどーんと仇に追い打ちかけましょうよ!」とけしかけて承知させたのです。日下部さんのこういった押し出しの強さ、岡田茂さんが見込んだ通りだったのです。あらためて、岡田茂さんの慧眼に感服です。こうして『仁義なき戦い』が生まれたのです。

作品の評価も高く、観客動員も大ヒット、「実録路線」という「大鉱脈」を掘り当てたのです。 もしかして、日下部さんが大男でなくて、岡田茂さんにプロデューサーに方向づけられていなかったら、映画史は別のものになっていたかもしれないのです。(ジャッピー!編集長)