ひとつ前の当ブログで、『仁義なき戦い』(1973 深作欣二監督)はキャスティングの変更、脚本の笠原和夫さんが深作欣二監督に難色を示すなど、撮影前にドタバタがありましたが傑作となり大ヒット、シリーズ化された話を書きました。

この大変な状況で、プロデューサーをつとめたのが日下部五朗さんです。日下部さんは2020年2月8日に85歳でお亡くなりになりましたが、訃報を知らせる記事でも『仁義なき戦い』の文字や写真が出ておりました。

日下部さんは1957年(昭和32年)に東映に入社しました。映画人口のピークは1958年(昭和33年)ですから、まさに黄金時代に映画界に入ったのです。『天井桟敷の人々』(1944 マルセル・カルネ監督)や『埋れた青春』(1954 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)などフランス映画に感動しまくった日下部さんは映画監督を目指して入社しました。同期には後年、健さん映画でお馴染みの降旗康男さんや、傑作『忍者狩り』(1964 山内鉄也監督)でデビューした山内鉄也さんがいます。しかし、日下部さんは京都撮影所で初対面となった岡田茂さん(当時、製作課長)が「君は体がデカいな。力もありそうだし、プロデューサーの勉強をしろ」と制作進行にさせられます。

監督志望だった日下部さんの運命はここで決まってしまったわけですが、当ブログでも何度か書いているように岡田茂さんは即断即決、するどい勘の持ち主ですから、やはり見抜いていたのでしょうか。岡田茂さんも180cmある当時でいえば相当の大男でしたから、その自分より大きい男ならプロデューサーという激務に耐えられると思ったのでしょう。日下部さんによると、「製作進行」とは撮影に必要な雑務を一手に引き受ける仕事で、まして映画黄金時代のこと、製作本数も多いので掛け持ちで毎日、朝から晩まで何でもやらされたそうです。そして、6年後、1963年に辞令がおりて企画部に移った日下部さん、本格的にプロデューサーとして歩み始めます。

そして、「体がデカいから」プロデューサーにさせられたことが思わぬところで活きるときが来ます。(この項、続く) (ジャッピー!編集長)