ひとつ前の当ブログで、今は無い「浅草名画座」で毎年、秋に5週間にわたって『仁義なき戦い』シリーズ(1973~1974 深作欣二監督)を上映、スタンプラリーを実施していたことを書きました。

この「浅草名画座」では、毎月、手作りコピー印刷の番組表を配布していました。ラインアップの作品紹介も独自で面白く、この番組表自体も楽しみにしていました。欄外のコラム?に「任侠雑学講座」なんてのもあって、ここにも『仁義なき戦い』週間になると、関連の文章が書かれました。その中に「仁義なき戦い/配役整理作戦」というのがあったのを記憶しています。5部作の中で、同じ俳優が違う役で出てくることが頻発するので、(または同じ役なのに俳優が変わったりも)混乱しないように説明していて、『仁義なき戦い』若葉マークの人の予習復習に役立つ親切な情報でした。

確かに、群像劇ですから登場人物も多いし、東映も役者が足りなくなったり、次々に作品を繰り出し(第1作~第3作は1973年、第4作は1974年1月、完結篇は1974年6月公開ですから1年半のうちに5作連打されたのです!)、役者のスケジュールが合わなくなったりという事態の中で撮影されていたのでしょう。特に主要キャストはご苦労があったと思います。

5部作中3本に異なる3人の役で出演、そして3役とも悲惨に殺される松方弘樹さんは、第1作のかっこいい若衆から一転、第4作では結核病みの役なので顔をどす黒くメイクしたり、第5作はシワを書き入れて壮年ヤクザに扮するなど見事にキャラクターを演じ分けました。第1作で伝説のヤクザ、「地獄のキューピー」をモデルとした若杉寛を演じ殺された梅宮辰夫さんは、第3作から眉毛を剃って別人物で再登場(帰宅した梅宮さんを見た当時幼いアンナさんが泣き出したというエピソードが超有名)するなど、いろいろ工夫されていました。

そもそも、当初は広能役は渡哲也さんだったのが、渡さんが病気で入院してしまい、当初坂井役(松方さんが扮した役)だった菅原文太さんが広能になったということです。金子信雄さんも病気で、山守親分も、代わって三國連太郎さんがキャスティングされていたのが、過去に三國さんにドタキャンされたりしたことがある岡田茂社長が猛反対、西村晃さんに決まりかけたそうです。そこに入院先から這うようにやってきた金子さんの執念によって、山守役をゲット、あの山守像が生まれたのです。(ちょっと西村さんバージョンも観たかった気も) 第2作の千葉真一さんと北大路欣也さんも撮影直前に役が交換になっています。

だいたいにおいて脚本の笠原和夫さんが「過去に脚本を勝手に変えて撮られた」と深作監督の起用に難色を示したりと、企画がスタートしたときからドタバタ続きだったわけです。それが見事な作品に仕上がり、大ヒットするのです。準備万端、スキのない状態で始まる仕事よりも「火事場の馬鹿力」みたいなものが勢いをあげることはしばしばありますね。

ちなみに名和宏さんは第1作で土居組長役で殺され、早くも第2作で別人物の役で出てきます。第1作目がまだ撮影中に手ごたえを確信した会社が即、続編を決定したといいますから、脇役までゆっくり検討する余裕がなかったのかもしれません。名和さん、2作目でも村岡組長という同じく組長役(ただしこちらのが大物)で、メガネをかけたり、ちょっと白髪入っている程度のプチ・メイクで切り抜けています。   (ジャッピー!編集長)