ひとつ前の当ブログで、『仁義なき戦い 頂上作戦』(1974 深作欣二監督)で抗争中の広能(菅原文太さん)と武田(小林旭さん)が電話でほとんど中学生なみの罵り合いをしていたシーンについて取り上げました。

この映画のとき、小林旭さんは35歳。一方、菅原文太さんは旭さんより5歳上。旭さんのスター歴が長いので、「えっ?文太さんの方がそんなに上なの?」という印象を持つ人もいるかもしれません。

実は奇しくも、お二人の映画デビューは同じ年、同じ日なのです! 文太さんは東宝の『哀愁の街に霧が降る』(1956 日高繁明監督)、旭さんは『飢える魂』(1956 川島雄三監督)で、両作とも1956年10月31日公開です。ともに脇役ですが、偶然にも同じ日にスクリーンに登場したのです。

文太さんは1954年、劇団四季の第1期生として入団、いくつか端役で舞台を踏んでいるようですが、その流れで映画に出られたのでしょう。その後、モデルのアルバイトをしていて1958年に新東宝にスカウトされて入社します。同年の『白線秘密地帯』(1958 石井輝男監督)で新東宝初出演となります。

旭さんは父親が映画の照明技師ということもあって、子役をやっており、日活第3期ニューフェイスに合格して入社、順調に出演作を重ね、翌年には『幕末太陽傳』(1957 川島雄三監督)にも久坂玄瑞役で出ています。そして、1959年に大ブレイク。『渡り鳥』、『銀座旋風児』のふたつのシリーズが始まり、マイト・ガイという愛称も定着し、一躍日活のローテーションの一角を守る大スターになっのです。

その頃、菅原文太さんはどうしていたかというと、『海女の化物屋敷』(1959 曲谷守平監督)や『九十九本目の生娘』(1959 曲谷守平監督)といった作品に出ていました。タイトルからもB級テイストはうかがえます。(僕は好きですが) どうしたって、チープ感満載の新東宝の映画では文太さんの一般的知名度はあがりません。吉田輝雄さん、寺島達夫さん、高宮敬二さんと「ハンサム・タワーズ」と称して売り出されるも、新東宝自体が1961年に倒産してしまいます。

文太さんは松竹に移籍するもパッとせず、『血と掟』(1965 湯浅浪男監督)で出会った安藤昇さんの薦めで1967年に東映に移籍。しかし、ここでも何本か脇での出演作が続き、ブレイクの時は来ません。2年後の『現代やくざ 与太者の掟』(1969 降籏康男監督)でようやく東映初主演を果たします。一方、旭さんはこの時点ですでに110本ほどの映画に出演、それもほとんどが主演、『渡り鳥』、『銀座旋風児』のあとも『流れ者』、『暴れん坊』、『賭博師』、『あいつ』、『女の警察』など数々のシリーズが作られ続けたのです。

同年同日に映画デビューしたお二人がそれぞれの軌跡を経て、『仁義なき戦い』シリーズで共演したと考えるとこの『頂上作戦』のラストシーンはまた感慨も深くなります。雪を含んだすきま風が吹く廊下で再会した広能と武田、徒労感漂う男たちが「もうワシらの時代も終いで……」と語る場面は、やっぱり日本映画史上に残る名ラストシーンであります。(ジャッピー!編集長)