ひとつ前の当ブログで書いたように、『PERFECT DAYS』(2023 ヴィム・ヴェンダース監督)で役所広司さんが演じた「平山」はその名の由来を持つ小津安二郎監督の作品を思い出させるキャラクターです。

必要最小限のモノだけで静かに自分の生活をおくる平山の佇まいに、忘れられた日本人の美徳のようなものを感じます。この平山がどうしてこういった暮らし(「1人」というより「独り」と書く方が合います)に至ったのかは、映画の中では語られません。彼がカセットで聴く音楽の趣味や読書する様子から、彼の世代やある程度インテリだったようなことはうかがえますが、来歴は一切不明です。そこがまた、この映画の良いところだと思います。

この映画はまだ上映中なのでネタバレを避け詳細は書きませんが、後半にあることが起こります。そこで平山はこんなことを言います。「この世界は繋がっているように見えて、実はそれぞれ別々の世界に住んでいるんだ」と。これは、世界が分断しているとかそういう意味ではなく、人間は皆それぞれ自分の事情を抱え、その生きづらさや辛さを抱えながらそれでも生きているんだ、生きていかなければならない、ということを伝えたいのだと思います。

僕の大好きな小説家に木山捷平さん(1904年~1968年)という方がいます。昭和初期から戦後まで主に私小説を綴られた作家で、戦時中の満洲体験、引き揚げてからの戦後の庶民生活を味わい深く書いた作品が多くあります。その木山さんに『苦いお茶』という短編があり、木山さん自身を投影した正介という人物が戦中、満州にいた頃に近所にいた少女・ナー公に戦後再会し、飲みに行く場面があります。ナー公も立派な大人になっていますが、懐かしくてあの頃のように「おじさん、おんぶして」と頼み、正介が酒場の中でおんぶして歩きます。すると、居合わせた学生が「すけべえ爺」とからんできます。

ここでナー公が正介の背中から降りて食ってかかるのです。「誰がすけべえ爺か。もっとはっきり言ってみ。人間にはそれぞれ個人の事情というものがあるんだ。人の事情も知らないくせに、勝手なことをほざくな」と啖呵をきって、学生たちを謝らせます。この場面が僕は大好きで、教員時代など生徒と接するときよく思い出しました。今回『PERFECT DAYS』の平山の台詞(こちらは穏やかな口調ですが)で、このナー公の啖呵を連想しました。(ジャッピー!編集長)