3つ前の当ブログで、今村昌平監督の鬼演出について書きました。『復讐するは我にあり』(1979 今村昌平監督)では実際に殺人が行われたアパートの部屋で撮影したり、『にっぽん昆虫記』(1963 今村昌平監督)では北村和夫さんがあやうく底なし沼に沈むところでした。

その今村昌平さんに「監督とは何と非情な人種」なんだと思わせた人物がいます。それは何と、小津安二郎監督です。今村昌平監督は日活で『盗まれた欲情』(1958 今村昌平監督)によって監督デビューしましたが、元々は松竹で助監督をしていて日活に移籍したのです。その松竹時代、小津安二郎監督の助監督をつとめていて、『麦秋』(1951 小津安二郎監督)、『お茶漬の味』(1952 小津安二郎監督)、そして『東京物語』(1953 小津安二郎監督)と3本続けて「小津組」につきました。

『東京物語』の撮影中の1953年10月に、今村助監督の母親が脳溢血で亡くなってしまいます。撮影現場から帰り、葬儀も終えて今村さんが撮影所に戻ってくると、もう「仕上げ」の段階に入っていて、映像に合わせて最後の音楽を入れるダビング作業に入っていたそうです。

ご存知のように、『東京物語』の終盤、東山千栄子さん演じる老母が脳溢血で倒れ亡くなります。今村助監督は作業の中で、このシーンを繰り返し観て、東山さんに自分の母が重なり(面影がよく似ていたそうです)、辛くなってトイレに立ちました。

涙を浮かべながら小便をしていると、小津さんも小便に来て隣に立ったのです。そして「どうだい、脳溢血で死ぬっていうのはあんなものだろう」と、自分の演出を自画自賛するように話しかけてきたのです。

このとき、今村助監督は「この世に映画監督ほど非情で怖ろしい人種はいない」と思ったそうです。のちに、今村さんも「非情な監督」として名を馳せるのも案外、作風の全く違う小津安二郎監督の影響が知らぬ間に「監督遺伝子」の中に埋め込まれているのかもしれません。(ジャッピー!編集長)