ひとつ前の当ブログの続きです。

「野麦峠の唄」という曲に深く感銘を受けた吉永小百合さんは、これを自分の主演作として映画化したいと熱望します。

小百合さんのマネージメントを一手に引き受けている吉永パパは、娘が熱望するこの企画を実現しようと奔走します。『忍ぶ川』で失敗したからでしょう、今度は主導権を握ろうと吉永事務所の自主製作という形で作ろうとします。

当時、石原裕次郎さんが石原プロを設立、『太平洋ひとりぼっち』(1963 市川崑監督)を製作したり、『忍ぶ川』が頓挫した熊井監督が『黒部の太陽』(1968 熊井啓監督)の監督に起用され話題を集めていたのが頭にあったのかもしれませんね。

しかし、素人プロデューサーの吉永パパにつとまるほど映画製作は甘くありません。日活映画で小百合さんと共演することの多かった宇野重吉さんに頼んでGM(ゼネラル・マネージャ―)を引き受けてもらい、宇野さんの努力で監督も内田吐夢さんに決定しました。戦前から活躍される大巨匠が監督になり、吉永さんの24歳の誕生日に大々的に製作発表が行われました。

しかし、クランクインも間近と言われる頃、吉永さんは出来上がった脚本が気にいらないと言い出します。そもそも「野麦峠の唄」が動機となった吉永さんは抒情的な映画にしたかったのですが、脚本は社会的背景をきちんと描き出した叙事的なものだったのです。『飢餓海峡』(1965 内田吐夢監督)など骨太の映画で知られる内田監督ですからきっちりした社会派テイストだったのでしょう、それが吉永さんの意に沿うものでなかったのです。吉永さん自身「脚本の出来、不出来とはわけが違います。趣味の問題でした」と語っておられます。

とうとう、吉永さんはお父さんに「私の考えていた『野麦峠』と違うの。中止してください」と告げ、企画は流れます。すでにロケハンまで進んでいた状況でのドタキャン、ある意味、吉永さんの「自分が作りたいもの」への拘りの強さが表れた事件です。演劇界の重鎮・宇野重吉さん、日本映画のレジェンド・内田吐夢監督に迷惑をかけるなんてことは普通では出来ることではありません。

この出稼ぎ製糸工女の悲劇はのちに大竹しのぶさん主演で『ああ野麦峠』(1979 山本薩夫監督)として映画化、キネマ旬報ベストテン第9位となる名篇となりました。吉永さんは『忍ぶ川』に続いて自身が熱望しながら名作への出演を逃したのでした。 (ジャッピー!編集長)