ひとつ前の当ブログの続きです。

米軍基地の通訳などやっていたジャニ―喜多川は、当時住んでいた「ワシントン・ハイツ」(現在は代々木公園になっています)の敷地内にあったグランドの使用許可をとり、近隣の小中学生を集めて少年野球チームを作ります。

このチームの名前がすでに「ジャニーズ」だったのです。ジャニ―喜多川は自ら監督として指導をしていたそうですが、ある日、雨で練習ができないので、チームから「なぜか4人」の少年を連れて『ウエストサイド物語』(1961 ロバート・ワイズ監督)を観に行ったら、少年たちが「僕たちも歌って踊れるタレントになりたい」と言い出し、アイドル・グループ「ジャニーズ」が結成された……というのが定説というか伝説?になっています。

「ジャニーズ」は、あおい輝彦さん、飯野おさみさん、中谷良さん、真家ひろみさんの4人からなるグループです。1964年にデビュー、まだ「ジャニーズ事務所」がない最初期はナベプロ(渡辺プロダクション)と提携して、ジャズ喫茶に出ていました。そのうち、テレビ番組のバックダンサーなどをつとめ、徐々に人気が出てきたのです。

正式デビュー前の4人の姿は、爆笑コメディ『やぶにらみニッポン』(1963 鈴木英夫監督)で見られます。この映画の中で、4人は木の実ナナさんのバックで踊っています。(当ブログ2022年9月3日をご参照ください)

「ジャニーズ」は1967年末には解散。(あとを継いだのが1968年デビューの「フォーリーブス」です)あおい輝彦さんは木下惠介監督のテレビドラマなどに起用、飯野おさみさんは「劇団四季」の浅利慶太さんに認められミュージカルで活躍、真家ひろみさんも日活ロマンポルノ『東京チャタレー夫人』(1977 藤井克彦監督)に出たりしていましたが、若くして亡くなりました。

そして、中谷良さんは、北公次さんの暴露本が出たあと、ジャニ―喜多川の性加害について告発しました。少年野球チーム「ジャニーズ」に参加したとき、中谷さんはまだ小学生。10歳か11歳の少年にジャニー喜多川はおぞましい行為をしたのです。この証言が真実ならば、ジャニ―喜多川は何が目的で「野球チーム」を作ったのか、ということに疑惑がわき起こります。(ジャッピー!編集長)