ひとつ前の当ブログの続きです。

1969年オフ~1970年にかけてプロ野球界を覆った「黒い霧事件」で、池永正明投手に「永久追放」の処分がくだったのは、他の選手と比べても重すぎると思います。「八百長試合」に関わったと認め永久追放になった与田順欣投手、益田昭雄投手が「池永を俺たちと同じ処分というのはおかしい」と言ったぐらいですから。

当時から、池永投手を「永久追放」にしたのは、ネームバリューのあるスター選手をひとり入れておかないと示しがつかないという「見せしめ」の意味があるんじゃないかということが言われていました。

「思惑」ということでいえば、もう一つあります。そもそも、この「黒い霧事件」を最初に報じたのは「報知新聞」(現・スポーツ報知)です。1969年10月8日に「永易将之投手が八百長をやっている疑惑」を報じたのです。「報知新聞」の親会社「読売」は、1964年の「東京五輪」をきっかけに九州に進出したばかりで、北九州地区で部数を増やそうとしていました。地元紙の「西日本新聞」は西鉄ライオンズのスポンサーでもあったので、ライオンズのイメージを落とし、「西日本新聞」の部数を落としてしまおうと企んだと言われています。

そういえば、僕の家はこの当時、すぐ近所に配達所がありその家に同級生がいたこともあり「読売新聞」をとっていたのですが、この「黒い霧事件」に対する記事はかなり激しい論調だったと子ども心にも思いました。その前からジャイアンツ嫌いだった僕ですが、球界の盟主とか言ってエラそうに「黒い霧事件」を糾弾する読売新聞を毎朝、読みながら、ますます嫌いになりました。

以後、いろんな選手の名前があがりましたが、翌1970年になると、藤田元司ピッチング・コーチが暴力団との交際が発覚し、謹慎処分になったというニュースが出て、ジャイアンツにもブーメランが返ってきたのです。こっちの方が先に発覚していたら、読売新聞や報知新聞は隠していただろうなと思ったものです。(ジャッピー!編集長)