ひとつ前の当ブログで、2017年6月24日に63歳という若さで亡くなった永射保さんのやっていたスナック「サウスポー」に行ってみたかったという話を書きました。

もう一軒、行ってみたかったお店がありました。「サウスポー」と同じく福岡県にあった「ドーベル」というスナックです。昭和のプロ野球が好きなお方にはもうお分かりですね。そうです、元・西鉄ライオンズのエース、池永正明さんがやっておられたお店です。池永さんは昨年(2022年)9月25日に76歳でお亡くなりになりました。そのニュースを知ったときは本当にショックでした。

僕は仕事をリタイアしたら、全国の球場めぐりをしようなんて思っていて、福岡にも観戦に行ったら「ドーベル」にも行ってみようなんて思っていましたが、残念ながら「ドーベル」は2007年に閉店してしまいました。早く行っておけば良かったなあ。今や、貧困で全国どころか近場の野球観戦もできなくなってしまいました……。

「ドーベル」のカウンターに毎日立っていたという池永正明さんは、僕の子どもの頃の憧れの大スターでした。甲子園で選抜優勝した下関商のエースで、高卒1年目の1965年に20勝で「新人王」。現在にいたるまで高卒1年目で20勝したピッチャーは出ていません。

その後も勝ち星を重ね、2年目15勝。3年目には23勝で最多勝。4年目も23勝、5年目に18勝。ちょうど僕が野球を夢中に観始め、自分で「プロ野球ブック」なんて雑誌を手作りしていた頃ですから、池永投手は僕にとって本当にスーパースターでした。

「黒い霧事件」に巻き込まれて、1970年5月に永久追放で野球界を去った時点で、23歳だった池永正明投手。高卒から5年と1か月であげた勝利は103勝。そのまま普通に現役を続けていれば300勝は確実にいったと思います。

特筆すべきは、103勝に対し65敗と、負け数が少ないこと。当時の西鉄ライオンズ(中西太監督でした)はチームが弱体化して、特に1968年、1969年は5位に低迷していたのです。そんな中、孤軍奮闘、勝てる投球のできるピッチャーだったのです。(この項、続く) (ジャッピー!編集長)