ひとつ前の当ブログの続きです。

元々、有楽町の「ヴィデオ・ホール」で1954年から開催していた「ウエスタン・カーニバル」ですが、エルヴィス・プレスリーさんの登場などもあり、「ロカビリー」ブームが過熱。もっと大きな会場で開催しようと堀威夫さんは渡辺晋さんに相談を持ち掛けます。

学生時代に中村八大さん、松本英彦さん、南廣さんらと「渡辺晋とシックス・ジョーズ」を結成するなどジャズ畑の渡辺さんは「ジャズ人気にとって代わるロカビリー」に手を貸すことは道義上、仲間に悪いと思ったのか、奥さんの美佐さんにこの件を任せます。

ご両親が米軍キャンプにバンドを派遣する仕事をしていたこともあるのでしょう(この曲直瀬夫妻の作った芸能社がマナセ・プロに発展)、美佐さんも敏腕興行師ぶりを発揮します。ロカビリー人気が高まっているとはいえ、まだ全国区とはいえない若い歌手を集めても客席は埋まらないと周囲には反対する人が多かったそうですが、美佐さんは妹の曲直瀬信子さんに勧められて都内の何軒かのジャズ喫茶に足を運び、その演奏や集まるファンの様子を実際に自分の目で見て、企画を推し進め、「日劇」に話を持ち込んだのです。

ひとつ前の当ブログに書いたように「日劇」側もお客が集まらないニッパチ(2月&8月)ならと承諾、2月に開催となったのです。ジャズ喫茶のオーナーの中には「日劇に出してあげるなんて若い子に夢みたいな話を持ち掛けて」と非難する人もいたそうで、美佐さんはどうしてもこの「日劇ウエスタン・カーニバル」を成功させなければと思ったのです。

入念なリハーサルを行い、客入れした後も信子さんたちが客席を廻り紙テープを配布し「この紙テープを投げて大声で声援して盛り上げてね」と頼み歩いたそうです。しかし、心配は杞憂に終わり、前の晩から「日劇」の周囲に集まり始めたファンたちは舞台が始まったとたん絶叫し、熱狂の渦を巻き起こしたのでした。企画者の予想を超える狂騒は「ロカビリー」人気を社会現象になるほどの大ブームを作り出し、日本のミュージック・シーンの新しい扉を開いたのでした。

その『第1回日劇ウエスタン・カーニバル』が開かれたのが、65年前の今日、1958年2月8日だったのです。 (ジャッピー!編集長)