ひとつ前の当ブログの続きです。

1962年、阪神タイガースに入団したジーン・バッキー投手は、外国人選手といっても無名のテスト生ですから、普通のアパートに住み、和式トイレなど不慣れな環境に苦しみます。

遠征先でもチームメイトと一緒に日本旅館に泊まりツンツルテンの浴衣を着て布団にくるまって寝るなど、そんな慣れない生活をしながら必死に頑張ったバッキーさんは、2年目に8勝、そして3年目には29勝9敗、防御率1.89という見事な成績で最多勝、防御率1位、外国人投手初の沢村賞も受賞します。

この1964年のタイガース優勝に貢献しましたが、MVPはとれませんでした。当時の日本記録、55本のホームランを放った王貞治選手がMVPをさらいました。

途中入団とはいえ、1年目の1962年は0勝3敗。今だったら、すぐクビだったでしょうが、球団上層部もバッキー投手の能力の可能性を見い出し「育てよう」という方針だったのでしょう。バッキーさんの陽気な性格、練習熱心な姿勢があったのは言うまでもありません。ハワイから帰るお金もないところから拾ってもらい、必死だったのです。このハングリー精神、快適なマンションを用意してもらう今の外国人選手には見られませんね。

それはともかく、タイガースのエースとなって100勝をあげたバッキー投手、101勝目を目指したジャイアンツ戦で王選手への危険球をめぐり、荒川博コーチと乱闘、殴ったときのケガが元で選手生命が終わったのは残念でした。たしか、最初に手(いや足か)を出したのは合気道の達人・荒川博コーチだったのですが、これがなかったら、まだまだ勝てたのに……。この「運命の日」が1968年9月18日です。

翌年、近鉄バッファローズに移籍したバッキー投手ですが、0勝7敗に終わり退団、帰国となりますが、吉田義男さん、遠井吾郎さん、山本哲也さん……など阪神時代のチームメイトが入れ替わり立ち代わり、毎日のように送別会をしてくれたそうです。仲間に愛され、ファンにも愛された選手だったのです。  (ジャッピー!編集長)