ひとつ前の当ブログで、1971年に「4打席連続ホームラン」を放った醍醐猛夫選手について書きました。

2019年12月11日に81歳で亡くなった醍醐さんの葬儀には、ソフトバンクの王貞治会長も訪れました。醍醐捕手は早実で3年のとき、1年生だった王貞治投手とバッテリーを組んで甲子園にも出場したことで知られています。同期生には徳武定之選手がいて、徳武三塁手は卒業後、早大に進み主将をつとめ国鉄スワローズに入団しました。醍醐さんの方は、1957年、高卒新人として「毎日オリオンズ」に入団し、その年に100試合以上マスクをかぶっていますから、今年の千葉ロッテの松川虎生捕手を思わせます。

醍醐さんが入団したとき、オリオンズには早実の先輩として「榎本喜八」選手がいました。榎本選手は1955年にオリオンズに入団、高卒でいきなりレギュラーとして定着、主に5番バッターを任され2割9分8厘、16本塁打で「新人王」に輝きます。そんな実績十分の先輩・榎本選手と醍醐さんは、キャンプや遠征の宿舎では同室になることが多かったそうです。

そして、ある日の試合で榎本選手は4打数4安打を打ち、醍醐さんは「さぞ、先輩は喜んでいるだろう」と部屋に戻ってみると、そこにな難しい顔をして、バットを握っている榎本さんがいて、声もかけづらかったといいます。4本もヒットを打ったのに、自分の納得のいく当たりではなかったので考え込んでいたというのですからスゴイ探求心です。

榎本選手がオリオンズに入団したとき、やはり早実の先輩、荒川博さんが在籍していて、「合気道」をベースにした打撃理論を教えられます。荒川さんは王貞治選手を特訓して一本足打法を完成させたことで知られていますが、王選手の前に榎本選手という門下生1号がいたのです。その榎本さんは王さん以上の「求道者」となり、打撃の極意をつかもうとしたのです。醍醐さんは高校時代は王投手とバッテリーを組み、プロでも榎本選手の「求道」ぶりにも触れたのです。醍醐さんはコーチになってからも、よく榎本さんの話を選手たちにしたそうです。こうして、先人の努力や苦心を語り継いだのです。 (ジャッピー!編集長)