先日、7月26日に「津久井やまゆり園」で追悼式が行われました。

2016年のこの日、元・職員のウエマツ聖によって、入所者19人が殺害され、職員2人を含む26人にケガを負わせた凄惨な事件から6年が経ったのです。昨年、園舎が再建され、今年3月には「鎮魂のモニュメント」も完成しました。犠牲者のうち、遺族が同意した7人の方の名前が刻まれています。

名前を刻むことに同意されなかった方の中には、報道によって「名前」が強調されることを望まないという理由の方もいらっしゃると思います。あるいは、自分の中ではまだ「死を認めたくない」という思いの方もおられると思います。いずれにしても、突然、命を奪われたことの怒りや悲しみが消えることはないのです。

せめて、このような事件が二度と起こらないように、記憶していかなければいけないと思います。しかし、どうも社会はどんどん「弱い立場」の人を置き去りにしているような気がするのです。

アベ晋ゾーを銃撃した山上徹也容疑者、やったことはもちろん罪悪でしょうが、いろいろな形で苦しめられ、孤独に追い詰められる人間を生み出す社会には問題がないでしょうか。ままならない方向に人生が転がってしまった人たちに「自己責任」と放り出すことは、事実上、こういう人たちを「なかった存在」にしていることではないのか。

アベ晋ゾーに近いところにいる議員の中には、「高齢者は歩かない!」(by マツカワるい)、「LGBTは生産性がない」(by スギタ水脈)などと、明らかに「優性思想」を持った差別主義者がいるし、最近も自民党国会議員が参加した会合で「マイノリティーに差別的な内容」の冊子が配布されていましたね。こういった連中に「NO」の声をあげなければ、一部の人の生きる権利が容易にひねりつぶされてしまうことになるのです。(ジャッピー!編集長)