ひとつ前の当ブログで、金田正一さんがプロ野球生活で「34」の背番号しか背負わなかった話を書きました。現役20年(移籍1回)、2回にわたる監督生活の通算28年間、「34」を通したのです。他の選手がつけてようが、押しのけて「34」をつけるというこだわりです。

選手~監督とひとつの背番号で通した例って他にはないような気がします。金田正一さんにデビュー戦で4打席4三振をくらった長嶋茂雄選手も最後の監督時には「3」をつけましたが、それまでは「90」や「33」を背負ってチームを率いていました。(たしか、江藤智選手がFAで移籍してきてカープ時代の「33」をつけるので監督が「3」に変更したという理由だったと思います) 王貞治さんは選手を引退後、「1」のままジャイアンツの助監督や監督をつとめましたが、根本睦夫さんの猛アタックでダイエーの監督に就任したときは「89」をつけました。「1」は主力の秋山幸二選手がつけていたこともありますし、ジャイアンツ時代との訣別という意味もあったかもしれません。たしか「野球(やきゅう)」をもじって「89」にしたと言われています。

野村克也選手は南海ホークスを解任された後、1978年、金田さんが監督をしていたロッテに拾われ、つけていた選手を押しのけて「19」をつけます。しかし、金田監督がオフに辞任、野村さんも退団となります。この辺、2019年、「僕を拾ってくれた森繁和さんとデニー友利さんが退団されるのに僕がいるわけにいかない」とドラゴンズを退団する松坂大輔投手と似たケースですね。ともかく、ロッテを退団した野村さんは新しく誕生した「西武ライオンズ」に入団します。これも根本陸夫さんの勧誘です。新生チームの基礎を築くのに大ベテランの力が必要と思ったのでしょう。このときは、たまたま空いていた「19」をすんなりつけることができました。

というわけで、野村克也さんは選手時代(監督兼任時代も含め)の3球団で「19」で通したように見えますが、南海に入団した1954年(昭和29年)から2年間は「60」だったのです。いわゆる「カベ」と呼ばれるブルペン捕手要員としての入団だったそうで、期待もされず大きな背番号だったのです。そこから実力を認めてもらい3年目から「19」を背負ったのです。

ノムさんも長嶋茂雄さん同様、最後の監督生活となった楽天ゴールデン・イーグルス時代は「19」を背負いましたが、ヤクルト監督時代は「73」、阪神監督時代は「82」をつけました。「19」ではありませんが、「19」(=1+9=10)のように足して「10」になる数字にこだわっての「73」「82」だったといいますから、やはり背番号には思い入れがあったのですねえ。 

ホークスの「19」は昨年から甲斐拓也捕手がつけています。野村克也さんという大先輩をリスペクトしての背番号変更です。「捕手」番号として受け継がれていくといいですね。 (ジャッピー!編集長)