ひとつ前の当ブログで、『クレージー黄金作戦』(1967 坪島孝監督)を取り上げました。その冒頭、作詞・永六輔さん、作曲・中村八大さんのコンビによる「万葉集」というう曲をお坊さん役の植木等さんが法華太鼓片手に歌うシーンについて、植木等さんのお父上が実際お坊さんだったことを知ってるとニヤリとすると書きました。

植木等さんはデイック・ミネさんに憧れて(実際、ステージでマネをしたこともあるそうです)、正統派のシンガーを目指していたので、「スーダラ節」が初シングルとなったとき「歌うのが本当に嫌で仕方なかった」ということです。そう言ったら、ハナ肇さんに「バカヤロー、これを聴いた人はホッとするんだから歌え」と怒られ、渡辺プロ社長の晋さんにも「日本中でこの歌を唄えるのはお前だけだ」と説得されます。しかし、植木さんは、こんな歌を唄って近所の人に何と言われるか……住めなくなるかもとまで思ったそうです。

そして、僧侶である父親が何と思うだろうかと思った植木さんはまず最初に聞いてもらおうと家に帰って♪ちょいと一杯のつもりで飲んで~いつの間にやらハシゴ酒~ と歌い始めました。♪気がつきゃホームのベンチでゴロ寝、これじゃ体にいいわきゃないよ~ 分かっちゃいるけどやめられない~ と続けたとき、お父さんはその「分かっちゃいるけどやめられない」というフレーズを繰り返すように口にして「これは人間の真理を突いた素晴らしい歌だ! これはヒットするぞ。自信を持って歌いなさい!」とおっしゃったそうです。浄土真宗の僧侶で本名の徹之助から徹誠と改名していたお父さんは「人間てものは皆、分かっちゃいるのにやめられないものなんだ。親鸞上人も亡くなるときに同じことを言っとる。作詞の青島幸男さんは実に才能がある!」と絶賛、植木さんの背中を押し、結果的に大ヒット、植木さんは一躍人気者になるのです。

この植木さんのお父さん・徹誠さんは、若い頃キリスト教の洗礼を受けながら、社会主義者としても労働運動、戦争反対を唱え、僧侶になってからも部落解放運動などに関わり、治安維持法により何度も特高に検挙され拷問を受けています。

植木さんの「等」という名前も「人は皆、平等でなくてはならない」という想いがこめられているのです。弾圧に抗した反骨の人であった徹誠さんですが、10代後半で東京に出てきた頃は義太夫にのめりこみプロの義太夫語りになろうとコンクールに出たり、映画館(無声映画時代です)でバイトしたこともあったそうですから、「芸事」の血脈が植木さんにも流れていたのでしょう。植木さんがお父さんのことを綴った「夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記」(植木等・著/朝日文庫)を読むと、この徹誠さんの波乱万丈の人生と人間的魅力が満載です。同時に、植木さんがお父さんから大きな部分を受け継いでいることが分かる名著です。(ジャッピー!編集長)