このところの当ブログで、『クイズ・タイムショック』のことを書いています。

『タイムショック』といえば、何といっても初代司会者の田宮二郎さんですね。「現代は時間との戦いです。さあ、あなたの心臓に挑戦します!」とストップウォッチ片手によどみなく語るオープニング、田宮さんのクールなカッコ良さが、このクイズのコンセプトによく合っていましたねえ。

この番組が始まった1969年といえば、既に日本映画は凋落していましたが、まだ「大映」は存続していました。その「大映」のスターだった映画俳優の田宮二郎さんが、テレビのクイズ番組の司会になったのは、1968年に田宮さんは大映をクビになり、当時の「五社協定」のため、容易に他社の映画にも出れず干されていた状況だったからです。

藤由紀子さんと結婚されて、子どももいた田宮さん、家族を養わなくてはいけないのに役者の仕事がなく、地方都市のキャバレーで「歌謡ショー」をやっていたといいます。奥さんの藤さんを社長に発足した個人プロダクション「田宮企画」を作り、フリーになっての初仕事が高松市のキャバレーだったそうです。「歌う映画スター来店!」ということで空港に女性ファンが詰めかけたといいますが、同時代の映画スター、三船敏郎さんや、石原裕次郎さん、かつては『悪名』シリーズの名コンビだった勝新太郎さんなどが自身のプロダクションで映画を製作したり活躍していた時期なので、田宮さんとしては悔しかったことと思います。大スターの彼らとは違って、長年尽くした「大映」からクビになり干されるという仕打ちだったのですから。このとき、田宮二郎さん、33歳。まさに働き盛りのときに仕事の場がなかったのはお辛かったと思います。そうした頃に始めた「歌謡ショー」、定員900名の大型キャバレーはほぼ満席だったといいますから、さすが映画スターの威光です。

そして、映像の仕事としては、「大関酒造」のテレビCMが最初でした。♪酒は~大関~心意気~ という歌も歌っていましたね。(ちなみに、このCMソングの作詞・作曲は小林亜星さん。今でもパッとメロディーを口ずさめるキャッチーさ、さすがです) 続いて「東京12チャンネル」のドキュメンタリー番組の司会を1クールやり、その後に『タイムショック』の司会のオファーがあったそうです。それまでスター俳優がこういう番組の司会をすることはなかったので、マネージャーは反対したそうですが、田宮さんは即、オファーを受ける決断をしたといいます。とにかく、必死に「田宮企画」を軌道にのせるため、仕事には全力投球だったのです。

そんな田宮さんの司会ぶりもあって、『タイムショック』は人気クイズ番組となりましたが、番組スタートから9年目の1978年9月に司会を降ります。(受け継いだのは、やはり俳優の山口崇さんでした) そして、その年の暮れ、田宮さんは43歳の若さで自らの命を断ってしまうのです。『タイムショック』の司会をしておられるときに既にいろいろ悩んでおられて精神的に不安定だったと言われます。もちろん、司会のときにそんな様子は一切感じさせず、洗練された司会ぶりだったので本当にびっくりしました。(ジャッピー!編集長)