ひとつ前の当ブログで、「AI美空ひばり」のことを取り上げました。一昨年の大晦日「紅白歌合戦」に登場し、新曲を歌ったAIで蘇った?美空ひばりのことです。

昨日も書いたように、僕は非常に気持ちの悪いものを感じましたが、これを観たとき思い出した小説がありました。スティーヴン・キングさんの『ペット・セマタリー』(上下巻 文春文庫)です。死んだ飼い猫を埋葬したペット用の共同墓地に不思議な力があって、その猫が生き返ってきます。それを知って、愛する息子を亡くした親がそこに埋葬すれば……というストーリーです。作中に引用もされていますが、W・W・ジェイコブスさんの『猿の手』にインスパイアされていると思います。

キングさん自身の脚本によって映画化もされた『ペット・セメタリー』(1989 メアリー・ランバート監督)も観ましたが、子どもを失った親の哀惜の気持ちが滲む一味違うホラー映画になっていました。(さらにリメイクされた映画もあったようですが僕は未見) キング愛読者の僕は文庫が出たとき上下巻を一気読み、その描写の積み重ねに圧倒され、どうしても映画は原作にかなわないなあと思った記憶があります。亡くなった愛する者に再び会うために呪われた力まで使うのは、やはり一線を越えていると思いました。(ちなみに原作本は、ペット霊園を作った子どもたちのスペル間違いを生かして「セマタリー」、映画のほうは「セメタリー」です)

「AI美空ひばり」を観たときに、同じような「一線」の踏み越えを感じたのです。「人間の思い上がり」というか、科学や技術で何をやってもいいんだという不遜さです。『ペット・セマタリー』で蘇った死者は死者でしかないし、「AI」は「AI」でしかないのです。

大事なのは、亡くなった人のことを「思う」ことです。思い続けていれば、いつも心の中にその人は生きているのです。その人の仕草や言葉、関わったいろいろな場面を忘れないことです。いつか自分も死んで、あちらで再び会うときが来るのです。「AI」なんかにかまけてないで、死者を偲ぶものとしての「お彼岸」や「お盆」を大事にしたらどうですかと言いたいですね。

「AI」なんかを作って「新曲」を歌わせるなんてのは、秋元康とかそういう連中の商売、戦略にすぎません。ほっとけば、金儲けのために、どんどん墓暴きをして命の尊厳を踏みにじる領域に入ってくるのではないでしょうか。 (ジャッピー!編集長)