2017年にNHKで、小松政夫さん原作の『植木等とのぼせもん』がドラマ化されたのは、植木さんは2007年に80歳で亡くなっているので、没後10年、生誕90年という節目の年だったことも大きかったでしょう。

植木さんはとにかく、昭和がいちばん元気だった高度経済成長の時代の象徴といっていい存在でした。しかし、スターぶったり、エラそうな態度はなかったといいます。福岡生まれの小松政夫さんは1961年に俳優を目指して上京、1964年(東京オリンピックの年です)、22歳で植木さんの付き人兼運転手になります。小松さんに「君はお父さんを早くに亡くしたようだから、私を父親と思えばいい」と言って、本当に親身になって面倒をみてくれたということが原作本に書かれていました。

小松さんが初めて植木さんに会ったのは、植木さんが入院している病院だったそうです。映画にテレビにステージと休む間もないスケジュールで植木さんは過労で倒れてしまっていたのです。「ウィルス性肝炎」と診断され、1か月に及ぶ入院で、撮影中だった映画『無責任遊侠伝』(1964 杉江敏男監督)は3月公開予定が7月にずれこんでしまったのです。前年の1963年には何と12本もの映画に出ているのですから無理もありません。

そんなときに小松さんは一般公募で付き人に採用されたのです。翌1965年にはクレージーキャッツ結成10周年記念映画として大作『大冒険』(1965 古澤憲吾監督)が制作されます。「007」を意識してアクションもふんだんにあるので、東宝は植木さんに1億円の保険をかけたほどだったと言われる作品ですが、植木さんがバイクで疾走するシーンは小松さんがスタント役をしているそうです。

小松さんは付き人をやりながら『シャボン玉ホリデー』に顔を出すようになります。舞台にも小さな役で出してもらうようになり、植木さんはどこに行っても、「こいつは面白いよ。どんどん使ってやってくれよ」と小松さんを推薦してくれたそうです。植木さんの「お呼びでない?」というギャグは「小松さんの早とちりが元になって生まれた」と言われていましたが、小松さんによると、それは事実ではなく、植木さんが小松さんをアピールするために「作った」話だったのです。

2年半ほど経って、小松さんは独立することになります。植木さんが渡辺プロの上層部に「小松は独立するけど、もしお前らが干すとか意地悪するようなことをしたら俺が承知しないからな」と言って送り出してくれたそうです。いいエピソードです。小松さんは本当に良い師匠にめぐり会えたんだなあと思います。言い尽くされた言葉ですが、人との「出会い」って本当に大事です。(ジャッピー!編集長)