昨日の当ブログの続きになります。

木村大作さんが高倉健さんと渡哲也さんについて、「セリフなんて喋らなくても、じっとしてるだけで場が持つ」ところが似ているとおっしゃっていて大いに納得したという話。

僕の持論として、「健さんと渡哲也さんが主役をはった映画はリメイクなんかしちゃダメ」とずっと思っていました。お二人の場合、演技うんぬんじゃなくて「健さん」「渡哲也さん」という存在、それが圧倒的なので、リメイクしても絶対に勝てないのです。

実際、『君よ憤怒の河を渉れ』(1976 佐藤純彌監督)が2017年にジョン・ウー監督でリメイクされたので観ましたが、やっぱり物足りないんですよね。また、『仁義の墓場』(1975 深作欣二監督)も後年、岸谷五朗さんでリメイクされ、これも観ましたが、どうしたって比べちゃいました。

演技うんぬんではなく、健さんや渡さんの存在感が圧倒的だから、リメイクしても勝ち目はないし、無謀といっていいかもしれません。木村大作さんがトークで、「映画の中で健さんが演じたのはどれも健さんなんだよ。『駅 STATION』の主人公は三上英次じゃないんだ、高倉英次なんだ」とおっしゃっていましたが、その通りだと思います。よく、何の役をやっても「健さん」になっちゃうという言われ方をされていましたが、それでいいと思うのです。役に憑依するとか、そういういわゆる「演技派」ではなく、「スター」なのですから。

そういう意味では、健さんのやる役は幅が狭いかもしれません。「健さん」ありきなので、作品、役は相当に吟味しないといけません。その代わり、健さんのイメージにバッチリはまって名作になるのです。『鉄道員(ぽっぽや)』(1999 降旗康男監督)なんて、健さんしか考えられないでしょう。逆に、『乱』(1985 黒澤明監督)の出演オファーは断るしかなかったでしょう。健さんは主役として「健さん」である役しかできないのであります。

「何をやっても健さんになっちゃう」は真のスターであることを示す大いなるホメ言葉だと思います。(ジャッピー!編集長)