長篠の戦いが終わり、いよいよ信長メインの時代に入りますね。
しかし、その前に一悶着起きます。
徳川家にとっては将来を左右する大事件です。

嫡男信康と正室瀬名の死ですね。
徳川家の存亡にも影響する大事件ですが、さらに家康の自らの命で処断がなされた事になっていますから穏やかではありません。
そしてその理由が今ひとつ不明確なため、戦国時代最大の謎の一つとなっています。


🔻家康を超える逸材だった可能性が

🔻考えてみれば波乱の人生でした



その為、様々な憶測で幾つかの説がうまれました。

まず文献などによる史実に照らし合わせると、

1.信康は家臣の諌言を聞かないのはもちろん、長篠以降は家康にも従わず対立していた。家臣はその為、大変な苦労をしていた。因みに信康の後見人は石川数正だった。

2.その結果、信康は武田寄りとなり母瀬名や岡崎城の家臣と共に謀叛の行動に出ていた。先日の大岡弥四郎事件もその一端で家康が何とか軽く収めたが、火種は残っていた。

3.信長の娘五徳の斬奸状が家康重臣の酒井忠次によって信長に届けられるが、忠次はまったく信康を庇わず五徳を支持した。その為、信長は家康の思う通りに処罰せよと命じた。

と言ったところで、概ね信康の聞く耳を持たない性格と浜松と岡崎の分断を招いた上に武田に組みする動きがあった事、五徳との不仲と嫁姑問題を原因と見せている感じになっている。
そしてあくまでも家康の命であり、信長は誅殺に言及していない。
🔻信長の娘と言う数奇な運命

🔻この人あっての家康でしたが‥



ところが、一方で、どうも違うのでは無いかと思わせる言動があちらこちらから見受けられるのである。

1.信康は大変に武勇に優れた家康以上の大将の器であった。実際、長篠以降の武田との戦でも常に殿を務め武田軍の押さえ込みに成功している。その気質は最悪の状態でも自ら先頭に立ち家来を鼓舞できる武将の理想の姿と称賛され、信長も認めていた。

2.関ヶ原の合戦の折、家康は「信康さえいてくれればこんな苦労はしなかった」と泣いている。

3.信康の介錯は当初服部半蔵で二俣城に赴くが遂に首を切ることができず、他の者が切り落とした。その者は以後、徳川家に居場所を失った。また、後見人だった石川数正も出奔する憂き目に遭う事になる。

4.信康を庇わなかった酒井忠次はその後も徳川のNo.2として家康に仕えるが、晩年に隠居の挨拶に「息子共々これからもよろしく」と述べると、家康は「お前でも長男が可愛いのか?」と吐き捨てている。忠次亡き後関ヶ原の恩賞で他の四天王、井伊家、榊原家、本田家が10万石以上を拝領される中、酒井家は房総臼井の僅か3万石に留まった。これは家康の忠次に対する意趣返しと見られる。

少なくとも、信康はかなり優秀で、家康も決して率先したわけではなく、その断罪には遺恨を残していたと思われるのである。
🔻鬼の目にも涙でしょうか?

🔻信長、秀吉に勝るのは恐るべき胆力


🔻信康の件のみが謎


すると、本当の理由は何だったのかとなるのであるが、やはり信長の命令だった可能性が高い。

この頃、信長は天下統一が見えてきて、先を見据えて組織改革を始めていました。
具体的には信頼できる身内による支配強化です。
自らの子供達が成長してきた事と謀叛防止がその背景にありました。
実際に家督は嫡男信忠に譲り、佐久間、林、丹羽等の古参の重臣を追放してその軍団をそのまま息子達に付け替えています。

しかし、信長に不安がよぎります。
信忠は優秀でしたが官僚的でおとなしすぎるのです。
どう見ても、家康の嫡男信康に武将として敵わないように見えたのでしょう。
何となく若き日の信長と信康は似ている感じがします。
それ故の排除粛清だった可能性が高いのです。

🔻第六天魔王も人の親だった


実は、こう言った事は家康の身にも降りかかります。
後に、関ヶ原以降に徳川、豊臣が両立する中で当初、家康は豊臣を一大名として存続を認めようとしていました。
ところが、関ヶ原10年後に久しぶりに成人した豊臣秀頼と再会すると家康は豹変します。
秀頼は180センチを超える長身で信長、お市、茶々の血を引く美男子でした。
取り巻きの家臣も立派な上、秀頼に心酔しています。
どう見ても自らの後継者秀忠では敵いません。
家康が豊臣家の抹殺を決意した瞬間でした。
因果なものです。

C.NHK