前半のヤマ場「壇ノ浦の戦い」が終わりました。
この戦いは、当時も大事件として広く認知されていた様で様々な階層の記録に記されています。
しかし、「平家物語」「源平盛衰記」「吾妻鏡」「玉葉」それぞれに見解が異なり、諸説ありすぎて、真実がわかり辛くなっています。

ただ、義経の超人的な活躍は共通しており異論がないようです。
実際、強かったのでしょう。

そのため一谷の合戦以降の連戦連勝がクローズアップされがちで、ドラマでもいつも軽く流されてしまうのですが、実際には義経も範頼もそれぞれ四国と九州に渡る前に大変な苦戦を強いられています。

義経は一谷の合戦後に甲賀で起きた1184年の三日平氏残党の反乱で苦労してます。
この時、残念ながらあの佐々木秀義のジッ様も壮絶な討死をしています。
享年74歳でしたが、息子義清と共に最前線で戦い、何と70人を討ち取った後の壮絶な死でした。
そんな激戦でしたから義経は四国に渡るのに時間がかかったのです。

範頼の方も西国の平家勢力に阻まれなかなか船を調達できません。

共にかなり苦労して壇ノ浦の布陣に至るのです。
まー、この布陣に成功した事で挟み撃ちが成立し、ほぼ源氏の勝利は確定していたと考えられます。

平家は壇ノ浦では海戦が得意だったので前半は潮流に乗って善戦するのですが、時間と共に潮は逆流します。

この段階で義経は漕ぎ手撃ちを始め平家から船のコントロールを奪います。
そして逆流する潮により九州沿岸に流されたところに範頼が待ち構えていたのです。

ドラマでは「流れてきた者を撃ってはいかん」と言って物見見物のようになっていましたが、実際には沿岸に流されてきた平家軍に大量の矢を射かけています。
和田義盛などは、まだ遥か沖で戦っている段階から何とか矢を届かせようと馬に乗ったまま海に入り射かけています。
性格がでていますね(笑)

ここいら辺の戦略は恐らく兵法を熟知している義経の考えと思われます。

途中、それに気づいた知盛、教経は何とかして義経を殺そうとします。

このとき、平家最強の豪の武者教経から逃げ回った義経の行動が八艘跳びでした。
実はあれは逃げ回っていたんです(笑)

義経は小さいし、弓も満足に撃てないほど非力でしたので、一騎討ちになったら勝てません。
しかし、20〜30kgもある鎧を付けたまま飛び回る能力には教経もさぞ驚いた事でしょう。

教経は、もはや討ち取るのは無理と悟り、義経の巨体の家来が二人がかりでかかってくると、一矢報いようとその二人を両脇に抱えて海に入水してしまうのでした。

五条大橋での弁慶との戦いの様子と兼ねて考えるに、どうも義経というのは身軽さと尋常ではない脚力の持ち主だったようです。

さて、こうして壇ノ浦は終わり、平家は滅亡したのですが、源氏の完勝かと言うと、残念ながら画竜点睛を欠く結果でした。

一つは安徳天皇を救えなかった事。
もう一つは三種の神器を欠いた事です。

これが、何故そんなに大切な事なのかと言うと、この二つを合わせ持てれば「除目」が行えたのです。

「除目」とは朝廷の大臣以外の官職と地方官の全てを任命することができる儀式なのです。

すなわち、朝廷官吏人事を自由に決められ、特に地方官吏支配には絶大な力を発揮できるのです。

故に、平家はこの二つを持ち去り、後白河法皇はその回収に躍起になっていたわけです。

それができなかったために、頼朝は朝廷とは別に独自の支配体制を立ち上げ、朝廷の支配体制と並び立たせるしかなくなります。

実際に平家は京から福原に逃げた時に、「除目」を実施しており、後白河法皇を排除して政権を握ろうとしています。

残念でした。
頼朝の義経に対する怒りは、無断任官よりむしろこちらの方だったのかもしれません。
頼朝もその重要性にじわじわと気づいていった感じがします。

さて、これからの展開に絡むのですが、一つ解明されていない謎があります。
義経が壇ノ浦の時点で帯刀していたのが名刀「薄緑」でした。

「薄緑」と言う名称は義経が名付けたもので、その正体は源氏の宝刀「膝丸」です。
ご存知の通り、「友切」と対を成す源満仲以来の源氏重代の兄弟刀の片割れです。

両刀とも何度も名前を変えているし諸説ありすぎて、壇ノ浦同様に真実は分かり辛いものになっています。

名称変更は伝説を生む度に変えられたようです。
・枕上(神)→膝丸→蜘蛛切→薄緑
・すなし(寸なし)→友切→髭切→鬼切

試し切りしたら膝まで切り裂いてしまったから「膝丸」、頼光が土蜘蛛退治をおこなったから「蜘蛛切」、義経は受け取ったときの感動を熊野の情景で表して「薄緑」としたそうです。きっと今頃と同じく新緑の季節だったのではないでしょうか?
「友切」も同じような感じです。

謎なのは、義経が熊野権現別当から授かった経緯は良いとして、義経以降がどうも解せません。

前回のドラマの後半で頼朝と義経は仲違いをしてしまいました。
「腰越状」はその信憑性を問われていますが、実はこの時、義経は頼朝の疑いが晴れるように願って宝刀「薄緑」を箱根権現に奉納しているのです。
これは紛れもない事実で、義経の本気度が伝わります。

しかし、願い虚しく疑いは晴れず、結局哀しい最期となるのですが、これには後日談があります。

その後の「薄緑」の行き先です。

何と1193年の曽我兄弟の仇討ちで使われているのです。
工藤祐経はこの名刀でバッサリ切られた事になります。

記述では箱根権現の別当が曽我兄弟を憐れみ「薄緑」を与えたとされているのですが、そんな理由で名も無い一御家人に源氏重代の宝刀を与えるでしょうか?

曽我兄弟の敵討ちが単なる敵討ちでは無かったとされる所以です。

考えられるケースは二つあります。

①箱根権現別当による義経の意趣返し説
 義経の本心を知る別当が義経を哀れに思い、曽我兄弟に刀を託して頼朝暗殺を狙った。
 実は曽我兄弟は工藤祐経を切った後、頼朝の陣に、向かっていたと言う記述があります。途中で取り巻きの御家人達に気づかれ惨殺されてしまい未遂に終わりますが、可能性ありです。

②頼朝自身による綱紀粛正が目的だった
 箱根権現に「薄緑」がある事を知った頼朝が別当を通して、曽我兄弟をそそのかし最強の刀で敵討ちを成功させ、平家滅亡後の御家人の引き締めを行った。

何が真実かはわかりませんが、その後「薄緑」はしっかり頼朝の元に戻っています。

この辺りがドラマでどの程度扱われるのかはわかりませんが、何となく触れる感じはしています。
期待しましょう!

ところで、この源氏の宝刀二振が、今年の夏に同時に公開されます♪
興味のある方は、いざ京都へ!