遊びは文化よりも古い。
「ホモ・ファーベル」(作る人)よりも「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人)が先にある。
これがホイジンガの大前提である。
そうだとすれば、どんな文化についても、そこに遊びの要素を発見できさえすれば、「文化とは何か」ということをなんとか解きほぐすことができる。なぜなら、われわれはもともとがホモ・ルーデンスであるからだ。われらはすべからく“遊者”なのだ。子供のころに誰もがその原型的な経験をもっていた。
まさにこのような立場でホイジンガは本書を書いた。ただし、ホイジンガは名著『中世の秋』(1919)以来のれっきとした研究者であったので、65歳になって発表したこの大著でも、遊びを研究するには従来の分析的なアプローチも論理的な解釈もほとんど役立たないという前提をつくった。
なぜこんな前提をつくったのか。それは、文化のさまざまな場面に遊びを見出すことはそんなに難しくないことなのだが、その遊びの「おもしろさ」がどこにあるのかということを研究的に決定できないからだと“研究者”として判断したためである。ホイジンガは「遊びのおもしろさは、どんな分析も、どんな論理的解釈も受けつけない」と書いている。
このように、功なり名をとげた研究者があえてこんなふうな弁解をしながらも、「おもしろさ」の記述に向かっていったというのが本書がもっている屈折的な意義である。意外に思われるかもしれないが、ぼくが最初に本書に惹かれたのは、この屈折感だった。屈折にめげずに、「おもしろさ」に向かっていった老研究者の一徹のようなものだった。
もっとも逆にいえば、こんなことだからアカデミックな研究というものはなんとも窮屈なものだともいえる。「おもしろさ」が学問できないなんて、それで学問なのかとも言いたくなる。しかしここでは、ホイジンガがインド古代史や神話学や中世学の正統的な研究者でありながら、あえて研究しきれない「遊び」に向かっていったことの壮挙に、拍手をおくりたい。
「ホモ・ファーベル」(作る人)よりも「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人)が先にある。
これがホイジンガの大前提である。
そうだとすれば、どんな文化についても、そこに遊びの要素を発見できさえすれば、「文化とは何か」ということをなんとか解きほぐすことができる。なぜなら、われわれはもともとがホモ・ルーデンスであるからだ。われらはすべからく“遊者”なのだ。子供のころに誰もがその原型的な経験をもっていた。
まさにこのような立場でホイジンガは本書を書いた。ただし、ホイジンガは名著『中世の秋』(1919)以来のれっきとした研究者であったので、65歳になって発表したこの大著でも、遊びを研究するには従来の分析的なアプローチも論理的な解釈もほとんど役立たないという前提をつくった。
なぜこんな前提をつくったのか。それは、文化のさまざまな場面に遊びを見出すことはそんなに難しくないことなのだが、その遊びの「おもしろさ」がどこにあるのかということを研究的に決定できないからだと“研究者”として判断したためである。ホイジンガは「遊びのおもしろさは、どんな分析も、どんな論理的解釈も受けつけない」と書いている。
このように、功なり名をとげた研究者があえてこんなふうな弁解をしながらも、「おもしろさ」の記述に向かっていったというのが本書がもっている屈折的な意義である。意外に思われるかもしれないが、ぼくが最初に本書に惹かれたのは、この屈折感だった。屈折にめげずに、「おもしろさ」に向かっていった老研究者の一徹のようなものだった。
もっとも逆にいえば、こんなことだからアカデミックな研究というものはなんとも窮屈なものだともいえる。「おもしろさ」が学問できないなんて、それで学問なのかとも言いたくなる。しかしここでは、ホイジンガがインド古代史や神話学や中世学の正統的な研究者でありながら、あえて研究しきれない「遊び」に向かっていったことの壮挙に、拍手をおくりたい。