マルコ8:10-21 <天からの徴とパリサイ派のパン種> 並行マタイ16:1-12
参照マタイ12:38-39、ルカ11:16.29、12:1
マルコ8 (田川訳)
10そしてすぐに彼の弟子たちとともに小舟に乗り、ダルマヌタの地域へ行った。11そしてパリサイ派が出て来て、彼に対して議論し始めた。天からの徴を彼から求めて、試みたのである。12そして霊において深く嘆息して、言う、「どうしてこの輩は徴を求めるのか。アーメン、あなた方に言う、この輩に徴が与えられることなど決してない」。13そして彼らを置いて、再び[舟に]乗り、向こう岸へと去った。
14そしてパンを持って来るのを忘れた。舟の中でパンを一つしか持っていなかったのだ。15そして彼らに指示して言った、「見よ、パリサイ派のパン種とヘロデのパン種に気をつけよ」。16そして彼らは、パンを持っていないということについて、互いに議論していた。17そしてそれを知って、彼らに言う、「パンを持っていないということについて、なぜ議論しているのか。まだわからないのか。まだ理解しないのか。あなた達の心は硬くなってしまっている。18眼を持っているものが見ず、耳を持っているが聞かない。19五つのパンを五千人のために割いた時、いくつの背負い籠いっぱいにパンくずを集めたか、18思いださないのか」。19彼に言う、「十二籠です」。20「七つのパンを四千人のために割いた時はいくつの籠いっぱいにパンくずを集めたか」。彼に言う、「七籠です」。21そして彼らに言った、「まだ理解しないのか」。
マタイ16
39そして群衆を解散させて、舟に乗り、マガダンの領域へ行った。1そしてパリサイ派とサドカイ派が進み出て、彼を試し、彼らに対して天から徴を示してみろ、と詰問した。2彼は答えて彼らに言った、(夕方になるとあなた方は言う、天が赤くなっているから、晴だ。3また朝には、天が赤くどんよりしているから、今日は嵐だ、と。あなた方は天の現象を判断することは知っているが、時の徴を判断することができていない。) 4「邪悪で淫蕩な世代は徴を求めるが、この世代にはヨナの徴以外は与えられない」。そして彼らをあとに残して、去った。
5そして向う岸に行った時に、弟子たちはパンを持って来るのを忘れた。6イエスが彼に言った、「パリサイ派とサドカイ派のパン種を見て、注意せよ」。7彼らは自分たちの間で議論して、言った、「我々はパンを持って来なかった」。8イエスはこれを知って、言った、「パンを持っていないということについて、自分たちの間で何故議論しているのか、信仰の小さい者たちよ。9まだわからないのか。五千人の五つのパンのことを思い出さないのか。またいくつの背負い籠に集めたかを。10また四千人の七つのパンのことを。またいくつの籠に集めたかを。11あなた方にパンのことについて言ったわけではないということが、どうしてわからないのか。パリサイ派とサドカイ派のパン種に注意せよ」。12その時彼らは、パン種についてではなく、パリサイ派とサドカイ派の教えに注意せよと言われたのだ、と理解した。
参マタイ12
38その時、何人かの律法学者とパリサイ派が答えて言った、「先生、あなたから徴を見せていただきたいのだが」。39彼は答えて言った、「邪悪で淫蕩な世代は徴を求めるが、預言者ヨナの徴以外はこの世代に徴は与えられない。
参ルカ11
16ほかの者はまた(彼を)試みて、天からの徴を彼から求めた。
29群衆が群り集って来たところで、話しはじめた、「この種族は悪しき種族である。徴を求めるが、ヨナの徴以外はこの種族に徴は与えられない。
参ルカ12
1数万人もの群衆が互いに踏み合うほどに群がって来た時に、彼はまず自分の弟子たちに対して話しはじめた、「パリサイ派のパン種に、つまり彼らの偽善に、みずから注意せよ。
マルコ8 (NWT)
10 それから[イエス]は弟子たちと共にすぐに舟に乗り,ダルマヌタ地方に入られた。11 ここでパリサイ人たちが出て来て彼と議論を始め,天からのしるしを彼に求めた。彼を試そうとしてであった。12 それで[イエス]はご自分の霊をこめて深くうめかれ,「なぜこの世代はしるしを求めるのですか。真実に言いますが,この世代には何のしるしも与えられないでしょう」と言われた。13 そうして[イエス]は彼らをあとに残して再び[舟]に乗り,対岸に去って行かれた。
14 ところが,[弟子たち]はパンを携えて行くのを忘れた。それで,一つのパンのほかには,何も舟の中に持っていなかった。15 すると[イエス]は彼らにはっきりと命じて,「じっと見張っていて,パリサイ人のパン種とヘロデのパン種に気を付けなさい」と言いはじめられた。16 それで彼らは,自分たちがパンを持っていないことについて互いに論じはじめた。17 これに気づいて[イエス]は彼らに言われた,「なぜあなた方はパンを持っていないことについて論じているのですか。まだ分からず,意味を悟れないのですか。あなた方の心は理解が鈍いのですか。18 『あなた方は,目があっても見えないのですか。耳があっても聞こえないのですか』。そして,あなた方は覚えていないのですか。19 わたしが五つのパンを五千人のために割いた時,あなた方はかけらを幾つのかごいっぱいに拾いましたか」。「十二です」と彼らは言った。20 「七つを四千人のために割いた時,かけらを幾つの食糧かごいっぱいに拾いましたか」。すると,「七つです」と彼らは言った。21 そこで[イエス]は,「あなた方はまだ意味を悟らないのですか」と言われた。
マタイ16
39 終わりに,群衆を去らせてから,[イエス]は舟に乗ってマガダン地方に入られた。1ここでパリサイ人とサドカイ人たちが彼に近づき,誘惑しようとして,天からのしるしを見せてくれるようにと頼んだ。2 [イエス]は答えて言われた,「[[夕方になると,あなた方はいつも,『晴天になるだろう,空が火のように赤いから』と言います。3 そして朝には,『今日は冬のような雨降りだろう。空は火のように赤いが,薄暗く見えるから』と[言います]。あなた方は空模様の解釈の仕方を知りながら,時代のしるしは解釈できないのです。]] 4 邪悪な姦淫の世代はしきりにしるしを求めます。しかしヨナのしるし以外には何のしるしも与えられないでしょう」。そうして,彼らをあとに残したまま去って行かれた。
5 さて,弟子たちは向こう側に渡ったが,パンを携えて行くのを忘れた。6 イエスは彼らに言われた,「じっと見張っていて,パリサイ人とサドカイ人のパン種に気を付けなさい」。7 それで彼らは,「わたしたちはパンを少しも持って来なかった」と互いに論じはじめた。8 これを知って,イエスは言われた,「パンを持っていないことで,どうしてそのように論じ合っているのですか,信仰の少ない人たちよ。9 まだ要点が分からないのですか。それとも,五千人の場合の五つのパン,そして幾つのかごに拾ったかを覚えていないのですか。10 また,四千人の場合の七つのパン,そして幾つの食糧かごに拾ったかを。11 わたしがパンについて話したのでないことを,どうしてあなた方は悟らないのですか。ただ,パリサイ人とサドカイ人のパン種に気を付けなさい」。12 その時,彼らは,パンのパン種ではなく,パリサイ人とサドカイ人の教えに気を付けよと言われたのだ,ということを会得した。
参マタイ12
38 その時,書士とパリサイ人の幾人かが彼に対する答えとしてこう言った。「師よ,わたしたちはあなたからのしるしを見たいのですが」。39 [イエス]は答えて彼らに言われた,「邪悪な姦淫の世代はしきりにしるしを求めますが,預言者ヨナのしるし以外には何のしるしも与えられないでしょう。
ルカ11
16 一方ほかの者たちは,彼を誘惑しようとして,天からのしるしを彼に求めはじめた。
29 群衆が寄り集まって来た時,[イエス]はこう言い始められた。「この世代は邪悪な世代です。それはしるしを求めています。しかし,ヨナのしるし以外には,何のしるしも与えられないでしょう。
参ルカ12
1そうしている間に,おびただしい群衆が集まって来て互いに踏み合うほどになったが,[イエス]はまず弟子たちにこう言い始められた。「パリサイ人たちのパン種に気を付けなさい。それはつまり偽善のことです。
前半の「天からの徴」伝承と後半の「パリサイ派のパン種」伝承は、元来は無関係な別々の伝承であろう。
この二つの伝承を組み合わせて一つの伝承物語に編集したのは、マルコであろう。
そこには、当然、マルコの意図が働いていると思われる。
マルコの「ダルマヌタの地域」に対してマタイは「マガダンの領域」。
「ダルマヌタ」(Dalmanoutha)という地名は、ほかでは知られていない。
Dalmounaiの山、Magdalaの地方、Magedaの領域、等の異読がある
「ダルマヌタ」の異読は「マグダラ」が訛ったものという説があるが、単なる憶測で、何の根拠もない。
マタイの「マガダン」(Magadan)には、Magdala、Magdalan、Magedanの異読がある。
こちらもマルコと同じくほかでは知られていない地名。
マルコの「地域」(merE)に対して、マタイは「領域」(horia)。
しかし、マタイ15:21では、マルコ7:24の「領域」(horia)を「地域」(merE)に変えている。
マタイはこの二つを区別していないのだろうが、わざわざマルコの逆をつくのは、マルコに対する対抗心?
WTの解説。
*** 洞‐2 170ページ ダルマヌタ ***
この地名は聖書のほかの箇所にも聖書以外の文献にも出て来ないので,その正確な位置はいまだに知られていません。ダルマヌタは書写の際の改変箇所かもしれないと考える学者たちもいます。というのは,マタイ 15章29‐39節の並行記述では,ダルマヌタではなく「マガダン」となっており,マルコの記述を載せた古代の幾つかの写本も「マガダン」または「マグダラ」を用いているからです。しかし,最良のギリシャ語写本は確かにダルマヌタとしているので,この語を本文上の誤りとみなすよりは,ダルマヌタという読み方をそのままとどめておくほうがよいと思われます。もしかしたら,ダルマヌタはマガダンの別名にすぎなかったのかもしれません。あるいは,その近くの地域の名前だったとも考えられます。
WTは、マルコの「ダルマヌタ」には、「マガダン」、「マグダラ」とする異読があるとしている。
「マガダン」の異読はマタイをマルコに逆輸入したもの。
「マグダラ」はマタイの異読であり、マルコのものではない。
マタイ主導の聖書無謬説信仰を刷り込むための嘘も方便。
マタイ16:2b-3に田川訳は( )が付いており、NWTには[[ ]]が付いている。
天気予報と時の徴を判断することに関するイエスの発言とされる部分。
この記号についてNWTは詳しい説明はないが、これは西方系写本ほかに見られる後代の写本における付加である。
本来の原文は、2節の「彼は答えて彼らに言った」の後に4節の言葉が続く。
伝統的には、ヴルガータ、ルター以来、最近の保守的諸訳まで、この挿入句を入れる読みが採用されていた。
しかし、シナイ写本とバチカン写本が一致してこの句を入れていない。
写本の数としては、大文字写本を含め、入れている写本が圧倒的に多い。
だが、写本の数は少ないが、マルコの場合以上にマタイでは、最重要写本であるシナイ写本とバチカン写本の一致は重要である。
特に英語訳の場合、伝統を忠実に守ろうとして、この句を削ろうとしないようである。
和訳も同様。岩波訳、前田訳だけが、[ ]付き。ほかはすべて本文として組み入れている。
NWTの改訂版の銀色NWTも他のキリスト教会主導の和訳聖書と同様、[[ ]]さえ外して、堂々と本文として扱っている。
WT出版物では、付加部分ではあるが、「キリストの臨在のしるし」、あるいは「終わりの日のしるし」を識別することと結びつけられて取り上げられる重要な聖句の一つである。
*** 塔93 7/15 32ページ 「天からのしるし」 ***
「夕焼けは晴れ,朝焼けは雨」という古い言い伝えがあります。今日では,気象衛星,コンピューター化された気温調査,ドップラー・レーダーなどの科学的な手段が天気予報に用いられています。そうした予報は冒頭の言い伝えとも一致していることが少なくありません。
イエス・キリストの宗教上の敵たちはイエスに「天からのしるし」,つまりイエスがメシアであることを証明する超自然現象を要求したことがあります。イエスは次のようにお答えになりました。「夕方になると,あなた方はいつも,『晴天になるだろう,空が火のように赤いから』と言います。そして朝には,『今日は冬のような雨降りだろう。空は火のように赤いが,薄暗く見えるから』と言います。あなた方は空模様の解釈の仕方を知りながら,時代のしるしは解釈できないのです。邪悪な姦淫の世代はしきりにしるしを求めます。しかしヨナのしるし以外には何のしるしも与えられないでしょう」― マタイ 16:1‐4。
イエスの敵たちは天気を予測することはできても,霊的な事柄を理解することはできませんでした。例えば,「ヨナのしるし」についてはどうでしょうか。神の預言者ヨナは巨大な魚の腹の中で約三日間過ごし,その後ニネベで宣べ伝え,こうしてアッシリアの首都ニネベに対するしるしとなりました。キリストが墓の中で足かけ三日過ごされ,その後復活させられたとき,イエスの世代の人々には「ヨナのしるし」が与えられました。イエスの弟子たちはその出来事の証拠についてふれ告げました。したがってイエスはその世代に対するしるしとなられたのです。―マタイ 12:39‐41。
別の時に弟子たちは,将来イエスが王国の権能をもって「臨在」される時の「しるし」について尋ねました。イエスはそれに答えて様々な特色からなる複合的なしるしをお与えになりました。その特色には前例のない戦争,大地震,食糧不足,設立された神の天の王国が全世界で宣べ伝えられることなどがありました。―マタイ 24:3‐14。
あなたは,目に見えない天の王としてのキリストの臨在のしるしにお気づきでしょうか。そのしるしの様々な特色はこの世代の上に成就しています。(マタイ 24:34)では,将来についてはどうでしょうか。聖書は,この事物の体制の終わりが間近に迫っていることについて明らかにするだけでなく,神が人類に約束された新しい日が間もなくすがすがしく輝かしい夜明けを迎えることについても予告しています。―ペテロ第二 3:13。
聖書本文の中に、イエスが時代のしるしを天気予報のように解釈出来る、ことを示唆していることにしないと、「終わりの日のしるし」を預言として解釈することがイエスに倣うものではないことになる。
天気予報に関するイエスの言葉とされる挿入句が、後代の付加であるとなると、聖書に付け加えたゆえに災厄を加えられる者の言葉を根拠に終わりの日のしるしを預言したということになる。
WTとしては、後代の付加であることが知られるのは、都合が悪いのだろう。
マタイに付加された天気予報の挿入句と類似の句が、ルカ12:54-56にも登場する。
ルカ12
「54また群衆にも言った、「西から雲が湧いて来るのを見ると、すぐにあなた方は、雷雨が来る、と言う。実際、そうなる。55また南風が吹くのを見ると、猛暑が来る、と言う。実際、そうなる。56偽善者よ、地と天の表面を検証することを知っていて、どうしてこの時を検証することを知らないのか」。
趣旨は同じでも、天気予報の実例も言葉遣いも大きく異なっている。
おそらく、イエスのロギオンがいろいろ形を変えて伝わっていて、ルカはその一つを12章の終りに編集し、マタイに挿入した写本家も別の一つの伝承を知っていて、ここに挿入したものと考えられる。
田川訳マルコの「この輩」に対してマタイは「邪悪で淫蕩な世代」。
NWTは、マルコもマタイも同じく「世代」と訳している。
原文のギリシャ語は、JWにもおなじみのgenea。
語幹gen-は「生れ」の意。
そこから派生した語で、原意は「生れを同じくする人々」。
これを時間的な意味に取れば、「世代」。つまり「同じ時期に生れた人々」の意。
これを血筋の意味に取れば、「氏族」。つまり「同じ血筋の先祖に生れた人々」の意。
この個所を、「ユダヤ人には徴が与えられることはない」という意味に解釈するのは、geneaを「民族」の意味に拡大解釈をしたもの。
だが、「氏族」を「民族」に拡大するのは無理。
「民」(laos)という語があるので、「この民」(houtos ho laos)という言い方の方が「民族」という趣旨になる。
「諸世代から」(ずっと昔から)、「諸世代へと」(今後ずっと)、両方組み合わせて「諸世代から諸世代へと」というヘブライ語由来の言い方で使われることが多い。
この意味の場合は複数形で使われるのが普通。
ここでは、マルコもマタイも単数形。
マルコには「この」という指示代名詞が付いており、マタイには「邪悪で淫蕩な」という形容語が付いている。
マルコの「このgenea」という表現は、目の前にいるパリサイ派の人たちに向かって、語られた言葉である。
血筋的な意味で、「パリサイ派みたいな者たち」は、という趣旨で、「このような連中」という意味を込めて使っているものと思われる。
時間的な意味に取ったとしても、パリサイ派を「近頃の連中」という趣旨に解するものであろう。
パリサイ派を目の前にしての言葉であるから、抽象的な意味で「この時代の人々」という趣旨には解し難いと思われる。
「ある特定の一定期間」という意味の「時代」に解すると、ほかの時代には徴が与えられたが、今の時代には与えられることはない」という趣旨になってしまう。
確かに、マルコのイエスは、パリサイ派の連中のような人間には「徴」は与えられることはない、と言っているが、かといって「弟子たち」には「徴」が与えられる、とも言っていない。
むしろ、「徴」を求めることも、与えられることも、完全に否定している。
後半では弟子たちが「パリサイ派のパン種とヘロデのパン種」の意味も理解しない連中として、描かれている。
マルコの「このgenea」を「この世代」と訳すと、パリサイ派だけではなく同時期に生きていた弟子たちにも「徴」は与えられないことになり、WT解釈と矛盾する。
しかし、マタイでは「この世代」においても一部の「徴」が与えられるとしている。
マタイを主導にマルコを読むと、「徴」を与えられない「この世代」に「弟子たち」は除外されていると解釈することになる。
もっとも、マルコとしては「弟子たち」もイエスの言葉を理解しない連中とみなしているのだから、パリサイ派同様、「徴」にこだわっている連中と大差ないとみなしているのだろう。
マタイの「邪悪で淫蕩な世代」という表現は、Q資料の言い方に従ったもの。
マタイ12「39彼は答えて言った、「邪悪で淫蕩な世代は徴を求めるが、預言者ヨナの徴以外はこの世代に徴は与えられない。40ヨナが三日三晩大魚の腹の中に居たように、人の子もまた地の心部に三日三晩居るであろう。41ニネヴェの人々がこの世代の者たちとともに裁きの時に復活してきて、この世代を裁くであろう。彼らはヨナの宣教に対して悔い改めたからだ。そして見よ、ここにはヨナよりも多くのものがある。42南の女王がこの世代の者たちとともに裁きの時に甦ってきて、この世代を裁くであろう。彼女は地の果てからやって来て、ソロモンの知恵を聞いたからだ。そして見よ、ここにはソロモンよりも多くのものがある」。
ルカ11「29群衆が群り集って来たところで、話しはじめた、「この種族は悪しき種族である。徴を求めるが、ヨナの徴以外はこの種族に徴は与えられない。30すなわち、ヨナがニネヴェ人に対して徴となったように、人の子もこの種族に対して徴となるであろう。31南の女王がこの種族の者たちとともに裁きの時に甦ってきて、この種族を裁くであろう。彼女は地の果てからやって来て、ソロモンの知恵を聞いたからである。そして見よ、ここにはソロモンよりも多くのものがある。32ニネヴェの人々がこの種族の者たちとともに裁きの時に復活してきて、この種族を裁くであろう。彼らはヨナの宣教に対して悔改めたからである。そして見よ、ここにはヨナよりも多くのものがある」。
マタイの「世代」、ルカの「種族」のギリシャ語はどちらも同じgenea。
マタイ「邪悪で淫蕩の」(ponEra kai moicharis)、ルカ「悪しき」(ponEra)という形容語が付加されているが、「ヨナの徴」に関する伝承は、ほぼ同じ形で登場する。
マルコには「ヨナの徴」伝承は登場しない。
マタイ「邪悪で淫蕩の」という表現は、マタイ・ルカの共通資料=Q資料由来。
ただし、「淫蕩の」(moicharis)を付加したのはマタイであろう。
田川訳では、geneaをマタイが「世代」、ルカが「輩」と異なる訳を当てている。
マタイが「世代」なのは、単に「邪悪で淫蕩のgenea」であるから、血筋的な意味で言っているのではなく、時間的な意味で「同時期の生れの人々」という趣旨に解したからであろう。
ルカが「輩」なのは、「このgenea」は「悪しきgenea」と特定のgeneaを念頭においているので、血筋的な意味で「悪しき血筋を受け継いでいる人々」の趣旨に解したからであろう。
マルコの「徴」(sEmeion)という語の用い方には、ほかの福音書著者とは異なる特徴がある。
使徒行伝では、複数形で「徴と驚異」(sEmeia kai terata)という語が組み合わせて用いられている場合、イエスの奇跡活動、あるいは使徒たちを通してなされる奇跡活動を指して用いられている。(2:19,22,43、4:30、5:12,6:8、7:36、14:3、15:12)
ヨハネ福音書では、「徴」(sEmeion sEmeia)は単数形でも複数形でも、一貫してイエスの行なう奇跡行為を指して用いられている。(2:11,18,23、3:2,4:48,54、6:14,26,30、7:31,9:16、10:41、11:47、12:18,37、20:30)
しかし、マルコでは複数形の「徴と驚異」という表現は、一度しか出て来ない。(13:22)
マルコ13「22というのも、偽キリストや偽預言者が現れ、できれば選びの者たちを惑わし欺くために、徴や奇跡をなすからである」。
マルコにおいて「徴や奇跡」は、イエスではなく、偽キリスト、偽預言者が行う、人を惑わす奇跡行為を指しているのである。
マルコはイエスの奇跡行為に関して「徴」という語を一度も適用させていない。
マルコで「徴」を求めるのは、イエスの敵である「パリサイ派」であり、「弟子たち」である。
マルコでは、「終わりの日の徴」(13:4)を求めたのも「弟子たち」であり、イエスはキリストの「臨在の徴」を弟子たちに与えてはいない。
「キリストの臨在」と「終わりの日の徴」を結びつけたのは、マルコではなく、マタイである。
ルカも「キリストの臨在」と「終わりの日の徴」とを結びつけてはいない。
つまり、「キリストの臨在」という句を付加したのはマタイである。
「終わりの日」と「キリストの臨在」を結びつけて、「徴」を求めて、識別しようとするのは、マタイ流キリスト教信仰ということ。
マタイやルカは、イエスの論敵が「徴」を求めても、与えられることはない、としているが、「徴」を求めること自体に関しては、必ずしも否定的なものとしていない。
マタイでは「人の子の徴」は「力と栄光」を伴うものとして描かれている。(24:30,34)
ルカでは、キリストを見分けるものとしての「徴」(2:14)が与えられているし、イエスの奇跡行為を指す「徴」(23:8)も肯定的に用いられている。
しかしマルコでは「徴」求める行為そのものに関して、否定的にしか使われていない。
それが、ほかの福音書著者たちと大きく異なっている点である。
マルコのこの個所の「天からの徴」を求める伝承も、イエスの論的であるパリサイ派がイエスに求めたものであり、イエスは「徴」を否定的なものとして、完全に退けている。
マルコ8
「12そして霊において深く嘆息して、言う、「どうしてこの輩は徴を求めるのか。アーメン、あなた方に言う、この輩に徴が与えられることなど決してない」。
マタイ16
「4「邪悪で淫蕩な世代は徴を求めるが、この世代にはヨナの徴以外は与えられない」。
マルコは「徴」を求める行為に関しても、「徴」が与えられることに関しても、完全否定である。
しかし、マタイは「徴」を求める行為自体を完全否定しておらず、「徴」が与えられることに関しても、完全否定してはいない。
むしろ、「ヨナの徴」は「邪悪で淫蕩な世代」以外には与えられるものだ、という趣旨に読めることになる。
イエスのメシア性を確証するような「天からの徴」が場合によっては「この世代」に「ヨナの徴」だけは与えられるものと読める。
言いかえると、マタイでは「邪悪で淫蕩」ではないという条件を満たすなら、「弟子たち」には「天からの徴」が与えられることをイエスは認めている、と読むことが可能になったのである。
マルコの「天からの徴」には、「ヨナの徴」に関する伝承は付加されていない。
「徴」とは、「イエスのメシア性を示す奇跡」を指しているのではない。
ユダヤ教の黙示文学的な宇宙論を念頭において「天からの徴」と言っている。
パリサイ派は、単に「イエスの奇跡」を要求しているのではない。
キリスト信者ではないのだから当然である。
奇跡を行なうイエスの権威を証明するような「天からの徴」を求めているのである。
つまり、「メシアの証明書」、イエスが神からの権威によって行動していることを証明するような宇宙を震撼させるような証としての「天からの徴」として求めているのである。
パリサイ派にとって「イエスの奇跡」は「メシアの証明書」にはならないのである。
パリサイ派はユダヤ教信者であり、「イエスの奇跡」を「メシアの証明書」と認めるなら、それはもはやキリスト教信者である。
そしてマルコのイエスは、単にパリサイ派が要求する「徴」を拒否する、というだけでなく、「徴」そのものを絶対的に拒否するのである。
「徴」を要求するパリサイ派の態度を批判するだけではない。
「徴」という概念を前提にして、イエスを解釈しようとする姿勢そのものを否定しているのである。
当然、マルコにおけるイエスの批判的態度は、「終わりの日のしるし」を求めた「弟子たち」にも適用されるものだろう。
マタイには、マルコのイエスの「徴」を求める徹底的な否定感情は消されている。
WTはマルコが最初に書かれた福音書として、マタイを解釈したくないわけである。
「弟子たち」が「終わりの日のしるし」を求める態度そのものをイエスが否定していることを認めたなら、WT教義そのものの危機となりかねないであろう。
当然ながらWTは「天からのしるし」を、マタイを前提に解釈し、マルコは無視している。
*** 塔93 7/15 32ページ 「天からのしるし」 ***
イエス・キリストの宗教上の敵たちはイエスに「天からのしるし」,つまりイエスがメシアであることを証明する超自然現象を要求したことがあります。イエスは次のようにお答えになりました。「夕方になると,あなた方はいつも,『晴天になるだろう,空が火のように赤いから』と言います。そして朝には,『今日は冬のような雨降りだろう。空は火のように赤いが,薄暗く見えるから』と言います。あなた方は空模様の解釈の仕方を知りながら,時代のしるしは解釈できないのです。邪悪な姦淫の世代はしきりにしるしを求めます。しかしヨナのしるし以外には何のしるしも与えられないでしょう」― マタイ 16:1‐4。
イエスの敵たちは天気を予測することはできても,霊的な事柄を理解することはできませんでした。例えば,「ヨナのしるし」についてはどうでしょうか。神の預言者ヨナは巨大な魚の腹の中で約三日間過ごし,その後ニネベで宣べ伝え,こうしてアッシリアの首都ニネベに対するしるしとなりました。キリストが墓の中で足かけ三日過ごされ,その後復活させられたとき,イエスの世代の人々には「ヨナのしるし」が与えられました。イエスの弟子たちはその出来事の証拠についてふれ告げました。したがってイエスはその世代に対するしるしとなられたのです。―マタイ 12:39‐41。
続く「パリサイ派のパン種とヘロデのパン種」の話でも、マルコの「徴」に対する絶対的拒否感情は貫かれている。
では、マルコのイエスが弟子たちに注意するようにと警告した、「パリサイ派のパン種とヘロデのパン種」とは何を指しているのか。
マルコは、「パリサイ派のパン種とヘロデのパン種」(tEs zumEs tOn pharisaiOn kai tEs zumEs hErodou)
マタイは、「パリサイ派とサドカイ派のパン種」(tEs zumEs tOn pharisaion kai saddoukaiOn)。
マルコは「パン種」を二度繰り返しているのに対し、マタイは一度だけで、無駄な重複表現を避けている。
マルコの「ヘロデ」に対し、マタイは「サドカイ派」。
マルコは「パン種」に関しては、「気をつけよ」と述べているだけで、それが何を指しているのか、明確にしていない。
それに対して、マタイは「パン種」に関して、イエスが繰り返し「注意せよ」と促すと、「弟子たち」はそれが「パリサイ派とサドカイ派の教え」のことであると理解した、となっている。
参ルカ12では、「パリサイ派のパン種」とは「彼らの偽善」のことであると解説されている。
これらを合わせて読むと、「パリサイ派のパン種」=「パリサイ派の教え」=「パリサイ派の偽善的な教え」という趣旨になる。
聖書は神の言葉であり、聖書を説くカギは聖書にあるとする聖書霊感説に従って読むと、「パリサイ派のパン種」とは、「偽善」もしくは、「偽善的な教え」を指していることになる。
「ヘロデのパン種」と「サドカイ派のパン種」も「パリサイ派のパン種」と同列にあり、彼らの「偽善」や彼らの「偽善的な教え」を指す、という解釈になる。
WTも同様の解釈をしている。
*** 洞‐2 590–591ページ パン種,酵母 ***
象徴的な意義 聖書中で「パン種」は,罪もしくは腐敗を指して用いられています。イエス・キリストは弟子たちに,「パリサイ人とサドカイ人のパン種に気を付けなさい」,また「パリサイ人たちのパン種に気を付けなさい。それはつまり偽善のことです」とお告げになりました。弟子たちには最初,イエスが象徴的な表現を使っておられるのだということが分かりませんでした。しかし最終的には,イエスが偽りの教理や偽善的な行ない,つまり「パリサイ人とサドカイ人の教え」に用心するよう自分たちに警告しておられたことに気づきました。これらの人々の教えには人を腐敗させる影響力があったからです。(マタ 16:6,11,12; ルカ 12:1)イエスはまた,ご自分の警告の一つとしてヘロデ(その党派的追随者も恐らく含まれる)についても述べ,「じっと見張っていて,パリサイ人のパン種とヘロデのパン種に気を付けなさい」と言われました。(マル 8:15)イエスはパリサイ人のことを,うわべを飾ることに腐心する偽善者として大胆に糾弾なさいました。(マタ 23:25‐28)イエスはサドカイ人の教理上の誤った見方を指摘なさいました。また,ヘロデの党派的追随者たちの偽善や政治上の欺瞞を暴露されました。―マタ 22:15‐21; マル 3:6。
使徒パウロはコリントのクリスチャン会衆に対してある不道徳な男の人を会衆から追放するよう命じた際,同様の象徴的な表現を用いて,「あなた方は,少しのパン種が固まり全体を発酵させることを知らないのですか。古いパン種を除き去りなさい。あなた方は酵母を持たない者なのですから,それにふさわしく新しい固まりとなるためです。実際,わたしたちの過ぎ越しであるキリストは犠牲にされたのです」と述べました。その後,「パン種」とはどういうことかを明示し,「ですから,古いパン種や悪と邪悪のパン種を用いず,誠実さと真実さの無酵母パンを用いて祭りを行なおうではありませんか」と述べました。(コリ一 5:6‐8)パウロはここで,過ぎ越しの祝いの直後に行なわれた,ユダヤ人の無酵母パンの祭りの描画的な意味を引き合いに出しています。ちょうど少しの酸い練り粉がパンの固まり全体,つまり一かま分全体をたちまち発酵させるように,一団としての会衆も,その不道徳な男の腐敗的な影響を除き去らなければエホバの目に汚れたものとなったでしょう。ちょうどイスラエル人が祭りの最中に家の中にパン種を置くことができなかったように,会衆も自分たちの中からその「パン種」を出すために行動しなければなりませんでした。
パン種はヘブライ人以外の古代の諸民族の考えの中でも腐敗と結び付いていました。例えば,ギリシャの伝記作家プルタルコスはパン種について,「それ自体腐敗の産物であり,それを練り粉に混ぜると,練り粉は腐敗する」と述べました。―倫理論集,IV,『ローマ人の質問』,109。
パン種は物事の悪い面と結び付けられているので,イエスは,「天の王国はパン種のようです。女がそれを取って大升三ばいの麦粉の中に隠したところ,やがて塊全体が発酵しました」と述べた時,腐敗的な要素を念頭に置いておられたようです。(マタ 13:33; ルカ 13:20,21)聖書は,天の王国の成員になる見込みを持っていると称する者たちによって真理が腐敗させられることを確かに示唆しています。―使徒 20:29,30; テモ一 4:1‐3。
アモスの時代の違犯をおかしていたイスラエルに対してエホバは皮肉をこめて,「パン種を入れたものによって感謝の犠牲の煙をくゆらせよ。自発的な捧げ物についてふれ告げよ」と言われました。(アモ 4:5)神はベテルやギルガルにおける彼らの崇拝がすべてご自分に対する違犯行為であると言っておられたのです。ですから彼らは,いっそのこと祭壇の上でパン種の入っていないパンだけでなく,パン種を入れたパンをもささげたほうがよかったのです。つまり,何も差し控えなかったほうがよかったわけです。彼らは偶像礼拝を行なっていたので,何をしてもすべて無駄なことだったのです。
WTは「パン種」を「象徴的な意味」で解釈し、発展させて、WT教義を正当化させている。
「パン種」は「罪」もしくは「腐敗」の象徴的表現である。
「偽りの教え」は「パン種のしるし」であり、「政治に関わること」は「パン種のしるし」であり、「腐敗」は「パン種のしるし」であり、「悪と邪悪」は「パン種のしるし」であり、「偶像崇拝」は「パン種のしるし」である。
「しるし」を通して解釈することが聖書の理解である、と言っているような解説である。
まるで、マルコのイエスが批判している「パリサイ派」が執拗に「徴」を求めて解釈しようとする姿勢と同じ態度であると感じるのは穿った見方であろうか。
マルコは、何を指して「パリサイ派のパン種」あるいは「ヘロデのパン種」と言っているのだろうか。
「パリサイ派のパン種」に関しては、「天からの徴」物語でおおよそ理解できるので、「ヘロデのパン種」を考察してみる。
聖書霊感説に従って、マルコをほかの聖書から解くのではなく、マルコの文はマルコの文に沿って考えることにする。
マルコの文にはマルコの意図が働いているのは当然である。
マルコ後に書かれたマタイやルカの意図や解釈がマルコに織り込まれているはずはない。
逆はありうる。
マルコの「ヘロデ」には「ヘロデ派」(hErOdianoi)という読みをするカイサリア系の写本(ΘWf1、f13他)がある。
ほかにも二箇所(3:6、12:13)で登場し、どちらも「パリサイ派」と対となって登場する。
マルコ以外の文書では、「ヘロデ派」という集団もしくは名称が登場しない。
ここも「ヘロデ派」と読むのが原文である可能性が高い。
マルコにおいて「ヘロデ」個人に関する言及があるのは、6:14-29の「洗礼者ヨハネの死」伝承においてである。
その中でヘロデは、イエスは洗礼者ヨハネの甦りであるから、イエスに奇跡的な力が働く、という意見やエリヤの再臨だという意見やイエスは終末の預言者の一人だという意見を持つ者たちと共に登場する。
ヘロデ自身は、「イエスはヨハネの甦り」という意見に賛同する。
8:15「ヘロデ」を「ヘロデ派」と読むものであるなら、ヘロデの意見だけでなく、「エリヤの再臨」または「終末の預言者の一人」とする意見を持つ者たちをも含めて「ヘロデ派」と言っているのであろう。
ヘロデの意見も含めて、これらは、すべてユダヤ教の宗教ドグマを前提としてイエスを解釈しようとする意見である。
NWTは「ヘロデ派」を「ヘロデの党派的追随者」(3:6、12:13)と訳している。
「政治集団」であるかのように「訳」しているが、原文のhErOdianoiは、「ヘロデの」という形容詞を名詞化したものの複数形。
直訳は「ヘロデの者たち」。
「党派的追随者」などという意味はなく、WT解釈を持ち込んだ改竄。
マルコは「パリサイ派」と「ヘロデ派」を対で同列においている。
つまり、パリサイ派がイエスに対して「徴を求める」姿勢とヘロデ派がイエスを「ユダヤ教の宗教ドグマを前提にイエスを解釈する」姿勢は同列であるとみなしていることになる。
とすれば、「パン種」とは「徴を求める態度や姿勢」であり、「ユダヤ教を前提にイエスを解釈する態度や姿勢」を指していることになる。
舟の中で「弟子たち」は「パンを持っていない」ことについて「互いに議論」するだけで、「盲目であり、聞く耳を持たない」者として、イエスから非難されている。
そして、イエスから「供食」物語を思い出すように指示される。
マルコのイエスは、二つの「供食」伝承で「籠」に「パンくず」を集めたことから、何を思い出せ、と言っているのだろうか。
このイエスの指示は、マルコの意図で挿入されているイエスの指示である。
マルコは二つの供食物語を通して、何を訴えたかったのだろうか。
二つの供食物語には、二つの聖餐式批判が織り込まれており、ユダヤ人キリスト教会系とヘレニストキリスト教会系に対する批判。
典礼形式における二種類の聖餐式批判、つまり聖餐と供餐に対する批判も織り込まれていた。
どちらのキリスト教会においても聖餐式は、パンやぶどう酒をイエスに関わる「象徴」と解釈して、共に飲食することにより、キリストの体と一体化し、一つの共同体としての交わりを確認し、救済を保証する典礼儀式である。
マルコは聖餐式における神学的解釈をした典礼に対して否定的であった。
「パン」を「イエスの肉」の象徴に見立てたり、「ぶどう酒」を「イエスの血」の象徴に見立てて、教会の共なる食事を救済と結びつけようとすることはイエスの教えとは無関係であり、不必要である、と言いたいのだろう。
聖餐を供餐の典礼としているキリスト教においても、「パン」を「生命と知識」の象徴、「ぶどう酒」を「ダビデのぶどうの木」の象徴に見たてて、救済の「徴」として共なる食事をすることにも否定的だったのだろう。
教会の共なる食事において、最も重要なのは、そこに「イエスが共にいる」ということであり、パンやぶどう酒により、イエスを神学的に理解することではない、という主張である。
聖餐の行為をいろいろと救済論的に解釈し、メシア論的に意義づけしたりする必要はない。
聖餐もしくは供餐という共なる食事によってイエスに対する全幅の信頼を寄せることがイエス信仰によるキリスト教の本質であろう、というのがマルコの二つの供食物語に込められた主張なのであろう。
マルコにとっては、そのような聖餐式における典礼儀式は、パリサイ派が「イエスに徴を求めた」態度と同じ姿勢に見えたのだろう。
それで、イエスは弟子たちに「パリサイ派のパン種とヘロデのパン種に気をつけよ」と忠告する
しかし、弟子たちは「パンを持っていない」ということについて、互いに議論するだけである。
弟子たちの関心事は、自分たちの食べるパンのことだけであり、イエスの発言には全く無関心であり、無理解である。
ついに弟子たちはイエスから「目を持っているものが見ず、耳を持っているが聞かない」と盲目の案内人認定されてしまう。
このイエスの弟子たちに対する発言を、4:12では、「弟子たち」が「外の者たち」に対して同様の発言をしている。
「11あなた方には神の国の秘義が与えられているが、かの外の者たちに対しては、一切が譬えでなされる。12彼らが眺めることは眺めるが見ず、聞くことは聞くが理解しないため、また彼らが立ち戻ってきて、許されることがないためである」。
この伝承自体は、エルサレムの原始キリスト教団が作成したものである。そこではそのまま写しているのだろう。
マルコがここで再び繰り返したのは、盲目で聞く耳を持たないのは、「弟子たち」を主張するあなた方自身の方ではないか、皮肉っているのである。
4:12と8:18では言葉遣いが多少異なるのは、自分が取り上げた伝承を思い起こしながら書いたためであろう。
そして、もう一度、二つの供食の出来事での集めた籠の「パンくず」(klasmatOn)を思い起こさせる。
「パンくず」(klasmatOn)は、「割く」(klaO)という動詞の受動名詞の複数形。
パンをちぎって食べた時に皿や食卓にこぼれる細かいくずのようなパン屑を指すのではなく、大きなパンを一人一人が食べられるように小さめに割いた、その「割かれた方のパン」を指す。
つまり、聖餐式の際に配られる割かれた方の一つ一つのパンを指す語でもある。
マルコは、再び供食物語で示唆した聖餐の真の意義を思い出せ、と指摘しているのである。
神学的解釈で救済信仰をあおりキリスト信者を集めているキリスト教会や「徴」を求めて終末信仰をあおりキリスト信者を集めているキリスト教会に対して、イエスとの供食における真の意味に立ち返るべきだ、と主張しているのだろう。
結局、弟子たちは最後までイエスの話やイエスと共に経験した奇跡的出来事の意味を理解できず、「まだ理解しないのか」と繰り返し不快感を示されている。
弟子たちは「理解しない」まま、イエスに叱責されたまま、話が終わっている。
結局、「徴」が与えられず、「どうしてこの輩は徴を求めるのか」とイエスに不快感を示されたまま退けられたパリサイ派と同じように、「弟子たち」もイエスに退けられたままに話は終わるのである。
「パリサイ派のパン種」とは、「徴」を求めてイエスを解釈する態度のことであり、「ヘロデ(派)のパン種」とは、ユダヤ教の神学論を前提にイエスを解釈する態度のことであろう。
マルコのイエスは、そのような「徴」にこだわり、神学的解釈をしてイエスを歪めて解釈する姿勢に「気をつけよ」と警告しているのである。
キリスト教は、聖餐に神学的解釈を施して救済信仰を構築することではない。共に食事を分け合う時に、そこにイエスが共にいることを信頼し、イエスに対する信頼を築き上げることこそ聖餐の本質である。
マルコは供食物語からパリサイ派のパン種までの編纂を通して、そう主張したかったのだろう。
マルコの「弟子たち」は、マルコのイエスを最後まで「理解しない」。
関心は自分たちの食べるパンのことだけであり、イエスの言葉にもパリサイ派のパン種にもヘロデのパン種にも気をつけることがないのである。
それに対し、マタイの弟子たちは、イエスの「パン種の話」と「供食の奇跡」の意味を、最後には「理解した」存在として描かれているのである。
ほかにもマタイは、マルコの「弟子たち」に対する否定感情を和らげている。
マルコの弟子たちは、パンを持って来るのを忘れて、一つしか持って来なかった、という設定である。
それに対し、マタイの弟子たちは、パンを持って来るのを忘れた、としている。
マルコでは、イエスが「パン種」に気をつけるよう、注意を促すが、弟子たちはイエスの言葉に注意を払うことも無く、自分たちの間で会話を続けている。
「一つのパンは持っていた」のに、弟子たちの関心は「パンを持っていない」ことにある。
つまり、弟子たち全員を満たすだけの「パンを持っていない」ことに対する関心であり、自分たちが食べるパンのみに対する関心である。
イエスが注意を促した「パン種」に関する関心は何ら示さない。
ただただ自分たちが「パンを持っていない」ことに関して、議論するだけである。
それに対しマタイでは、弟子たちはイエスの言葉を真面目に聞こうとしたのであるが、言葉の意味を取り違えて理解した、という構図に修正している。
まず、マタイは、マルコの「パンを一つしか持っていなかった」の句を削り、「パンを持って来るのを忘れた」、つまり「パンを一つも持って来なかった」、という設定にした。
マタイの弟子たちはイエスの「パリサイ派等のパン種」に注意せよ」という言葉を聞いて議論するのであるが、自分たちはパンを持っていないのに、どうしてイエスは「パン種に注意せよ」と言うのか理解できないという構図にした。
それで、イエスは「パン種」の話をしているのに、弟子たちの方は「我々はパンを持って来なかった」ことについて論議するという、少々お粗末な展開となっている。
結局、「パンを持っていない」ことを議論していることをイエスから叱られるのであるが、同時にイエスから「信仰の小さい者たちよ」という理解ある言葉をもらう。
「信仰の少ない者たちよ」(oligopistosの複数形)は一単語の形容詞の名詞用法。
マタイに4回(6:30、8:26、14:31、16:8)。
ルカに1回(12:28)。
ただし、ルカ12:28はマタイ6:30の並行でQ資料。
マタイにはほかに17:20「信仰の小ささ」(oligopistia)という抽象名詞も出て来る。
Q資料以外の個所は、すべてマタイがマルコの文を修正しようとしたものである。
つまり、ここの「信仰の少ない者たちよ」という句は、マタイによる付加。
マルコでは、「弟子たち」が「信仰(信頼)がない」(apistos)と完全否定して批判している(4:40)のであるが、マタイはマルコの否定辞(a-)を「小さい」(oligo-)に変えて、弟子たちのpistis信仰(信頼)を擁護してくれている。(8:26)
ここでも、マルコでは「理解しない」(oude suniete=not-but are-you-comrehending)と完全否定。
この17節では、「持っていない」「まだわからない」「まだ理解しない」と3回も否定語が登場する。
続く18節の弟子たちに対するイエスの評価の言葉でも、「見ず」「聞かない」「思い出さない」と3回の否定語が用いられている。
マルコは、弟子たちの「無理解」を執拗に強調しているのである。
それに対しマタイのイエスは、弟子たちを「信仰が小さい者」と評価するにとどまり、弟子たちのイエス理解を擁護する設定となっている。
そのおかげで、弟子たちはイエスが述べた「パン種」の意味を理解しようとする意欲はあるが、理解が届かない、という構図になった。
結局、マタイの弟子たちは、「パン種」の意味を理解する者たちとして締めくくられているのである。
マタイを通して福音書を理解しようとすると、マルコのイエスと弟子たちの行動が混乱してくる。
マルコの理解を通してマタイとルカを理解するのでなければ、イエスと弟子たちの本当の姿は見えて来ないように思う。
マタイにはイエス=キリスト信仰に根ざしたキリスト教の護教主義が織り込まれている。
マタイから読んでマルコを読み進めると無意識に刷り込まれたキリスト信仰を前提に読むことになる。
マルコにはキリスト信仰を元にしたイエス伝承も収められているが、マルコの編集句にはキリスト信仰を否定する箇所が多く存在する。
それゆえ、混乱するのである。
マルコよりも後に書かれたにもかかわらず、マタイを福音書の最初に、新約聖書の冒頭に位置付けたことがキリスト信仰のキリスト教伝播に大きく寄与したのであろう。
マタイより先に、キリスト信仰に水を差すようなマルコが福音書の冒頭に置かれていたなら、キリスト教の歴史と世界は別の様相となっていたのかもしれない。
たらればの話をしても仕方がないのであるが…w
WTにとっても伝統的なキリスト教会にあっても、福音書はマタイを通して解釈されるべきであり、マルコを通して解釈されてはならないものなのであろう。
マルコのイエスが「弟子たち」を否定しているという事実は、イエスが「統治体」を含め、「弟子継承」を根拠とするキリスト信者統治体制を否定していることに直結する可能性があるからである。