マルコ8:22-28 <ベツサイダの盲人の癒し> 参照マタイ20:29-34
マルコ8 (田川訳)
22そしてベツサイダに来る。そして彼のところに盲人を連れて来て、さわってくれるように、と頼む。23そして盲人の手を取って、村の外に連れ出し、目につばをつけ、手を彼の上に置いて、たずねた、「何かが見えますか」。24盲人は再び見えるようになって、言った、「人々が見えます。木のように歩いているのを見ます」。25次いでまた手をその男の眼の上に置いた。そして男はよく見えた。そして回復した。そして一切を遠くまできれいに識別した。26そしてその男を家に帰らせて、言った、「決して村に入らないように」。
参マタイ20
29そして彼らがエリコから出て行くと、多くの群衆が彼に従った。30そして見よ、二人の盲人が道ばたに座っており、イエスが通り過ぎると聞き、叫んで言った、「我らに慈悲を与え給え、主よ、ダヴィデの子よ」。31群衆は彼らを叱りつけて黙らせようとした。しかし彼らはますます多く叫んで言った、「我らに慈悲を与え給え、主よ、ダヴィデの子よ」。32そしてイエスは立ち止まり、彼らを呼んで、言った、「何をしてほしいというのですか」。33彼らは彼に言う、「主よ、私たちの眼が開くことです」。34イエスは憐れんで、彼らの眼にさわった。そして直ちに彼らは再び見えるようになった。そして彼に従って行った。
参マルコ10
46そしてエリコに来る。そして彼と、また彼の弟子たちやかなりの群衆がエリコから出て行くと、ティマイオスの子バルティマイオスという盲人の物乞いが道ばたに座っていた。47そしてナザレ人イエスがいると聞いて、叫んで言いはじめた、「ダヴィデの子イエスよ、我に慈悲を与え給え」。48そして多くの者が彼を叱りつけて黙らせようとした。しかし彼はますますさかんに叫んだ、「ダヴィデの子よ、我に慈悲を与え給え」。49そしてイエスは立ちどまり、言った、「彼を呼びなさい」。そして彼らは盲人を呼んで、言う、「勇気を出せ。起て。お前を呼んでおられる」。50彼は衣を投げ捨て、跳び上がって、イエスのもとに来た。51そして彼に答えてイエスは言った、「何をしてほしいというのですか」。盲人は彼に言った、「ラブニ、再び見えるようになることです」。52そしてイエスが彼に言った、「お行きなさい。あなたの信頼があなたを救った」。そしてすぐに、彼は再び見えるようになった。そして道で彼に従って行った。
参ルカ18
35彼がエリコに近づいて来た時に、一人の盲人が道ばたに座って、物乞いをしている、ということがあった。36群衆が通って行くのを聞いて、これは何か、とたずねた。37それで、ナゾライ人のイエスが通り過ぎるところだと告げられた。38そして彼は叫んで言った、「イエスよ、ダヴィデの子よ、我に慈悲を与え給え」。39そしてイエスの前を進んで行く者たちが彼を叱りつけて黙らせようとした。しかし彼の方はますますさかんに叫んだ、「ダヴィデの子よ、我に慈悲を与え給え」。40イエスは立ちどまり、彼を自分のところに連れてくるように、と命じた。彼が近づくと、たずねた、 41「何をしてほしいというのですか」彼は言った、「主よ、再び見えるようになることです」。42そしてイエスは彼に言った、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。43そして即座に見えるようになった。そして神に栄光を帰しながら、彼に従って行った。そしてすべての民が見て、神に賛美をささげた。
マルコ8 (NWT)
22 さて彼らはベツサイダに入った。ここで人々はひとりの盲人を[イエス]のもとに連れて来て,その人に触れてくださるようにと懇願した。23 すると[イエス]はその盲人の手を取って,村の外に連れて来られた。そして,その人の両目につばをかけてから,ご自分の両手を彼に当て,「何か見えますか」と尋ねはじめられた。24 するとその人は上を見上げてこう言いはじめた。「人が見えます。木のようなものが見えますが,それらは歩き回っているからです」。25 それから[イエス]は両手を再びその人の両目にお当てになった。するとはっきり見え,その人は元どおりになって,すべてのものがくっきりと見えるようになった。26 それで[イエス]は彼を家に帰らせたが,「しかし,村に入ってはなりません」と言われた。
参マタイ20
29 さて,一行がエリコを出る時,大群衆が彼のあとに従った。30 すると,見よ,二人の盲人が道路のわきに座っていたが,イエスがそばを通っておられることを聞くと,「主よ,わたしたちに憐れみをおかけください,ダビデの子よ!」と叫んだ。31 ところが群衆は,黙っているようにと彼らに厳しく言った。けれども彼らはいよいよ大声で叫び,「主よ,わたしたちに憐れみをおかけください,ダビデの子よ!」と言った。32 それでイエスは止まり,彼らに呼びかけて言われた,「わたしに何をして欲しいのですか」。33 彼らは,「主よ,わたしたちの目が開くようにしてください」と言った。34 イエスは哀れに思い,彼らの目にお触れになった。すると,彼らはすぐに見えるようになり,[イエス]のあとに従った。
マルコの<ベツサイダの盲人の癒し>物語の並行はマタイにもルカにもない。
参マタイ20の<エリコの盲人の癒し>物語は、マルコ10の<エリコの盲人の癒し>の並行であり、ルカ18の<エリコの盲人の癒し>物語も、マルコ10の並行である。
マルコは、ガリラヤ地方のベツサイダでも、ユダヤ地方のエリコでも盲人の癒しを記録することにより、イエスの奇跡的治癒行為は広くどの地方の民衆にも受け入れられていたことを強調しているのであろう。
マタイとルカは、マルコのガリラヤの盲人治癒物語を削除し、ユダヤの盲人治癒物語だけ採用した。
マルコの二つの「盲人の癒し」伝承を一つの伝承の別バージョンと考えたのだろうが、マタイ・ルカのユダヤ・エルサレム重視のキリスト教観を反映させているのだろう。
ただし、マタイはマルコの「ベツサイダの盲人の癒し」伝承の一部を「エリコの盲人の癒し」に組み込んで一つの物語に仕立て直している。
「そしてベツサイダに来る」の句は、前の段落の結びとも、この段落のはじめとも考えられる。おそらく両者のつなぎの句なのだろう。
<四千人の供食>も<盲人の癒し>もベツサイダの土地と結びつけられていた伝承であった。
それで、マルコは両者を結び付けるように、この句をつなぎの句として置いたのであろう。
<四千人の供食>と<パリサイ派のパン種>の編集の構成とは異なり、<盲人の癒し>と連続していることに特別な編集意図はないと思われる。
とすれば、「○○へ来る」というような言い方で話を始めるのがマルコ流でもあるので、物語の始まりの句と解するのが妥当なのかもしれない。
ベツサイダはガリラヤ湖北岸の町。ヨルダン川を挟んでカファルナウムの対岸東側。ベツサイダからカファルナウムまで約四キロ。
ベツサイダをマルコは「村」としているが、領主のフィリポスによって「町」(polis)の資格を得ており、名前も「ユリアス」(Julias)に変えられている。(ヨセフス『古代史』18・28)
ただしマルコのような庶民にとっては、役人でもあるまいし、厳密な行政区分や行政上の正式名称にいちいちこだわるつもりもないのであろう。
マルコは「ベツサイダ」という古い地名を使い続けている。
この奇跡物語で、マルコは「目・眼」を意味するギリシャ語を二種類用いている。
23節の「目」(ommata)は、ommaの対格複数形。
丸いという響きを持ち「目ん玉」というニュアンスの俗語的表現らしい。ホメロス以降、詩文ではよく出て来るという。(マルコ8:23 註)
25節の「眼」(ophthalmous)は、ophthalmosの複数形。こちらの語を用いるのが普通。
「目」(ommma)という語は、新約では、マルコ10:23とマタイ20:34<エリコの盲人の癒し>物語の「目」(ommatOn:与格複数形)での二箇所にしか登場しない。
マルコの<エリコの盲人の癒し>物語には、「盲人の眼にさわって、回復させた」という記述は登場しない。ルカにも登場しない。
つまり、マタイはマルコの<ベツサイダの癒し>物語は削除したが、イエスが「盲人の目をさわって、回復させた」という記述を<エリコの盲人の癒し>物語に組み込んだ、ということ。
「次いでまた」(eita palin)の「また」(palin)は論理的には意味をなさない。
「次いで」だけなら意味は通るが、「また」(字義的には再び)となると、それ以前に「目の上に手を置いた」と言うのでなければ意味が通らない。
だが、そうした記述はない。
つまり、この「また、再び」(palin)は意味のない「再び」。
4:1、7:14と同じく、マルコのセム語的口癖。
マルコとしては、イエスが同様の「治療」行為を次々と行なっていたということを言いたかったものと思われる。
癒された盲人を「帰らせて」おきながら、「村に入らないように」と指示するのも、論理的には矛盾する。
家は村の中にあるのだから、村に入らないで家に帰るのは不可能。イエスが論理的に不可能な指示をした、ということになる。
この論理的矛盾を解消しようとしたいろいろな異読があるそうだ。(8:26註)
「村で誰にも話してはいけない」(古ラテン語訳のk写本)
「家に帰りなさい。そして村では誰にも何も話してはいけない」(Θ、f13)
「村に入ってはいけない。また村で誰にも話してはいけない」(C他)
単に「村に入らないように」(シナイ、B、L、f1)
写本の重要性およびlectio difficiliorの原則からして、単に「村に入らないように」が原文だろう。
種々の異読は、マルコの矛盾を修正しようとして加筆訂正したものだろう。
マルコが言いたいのは、奇跡の恩恵に預った者は、起こったことをむやみに吹聴してはならない、ということであろう。
マルコの奇跡物語には、この種のキリスト的英雄主義を嫌い、奇跡行為に関して緘口令を支持するという場面が度々登場する。(1:44、5:18-20、7:36参照)
ここの「村に入らないように」という指示もその類を表現しようとしたものだろう。
「メシアの秘密」ではなく、「奇跡の秘匿性」を動機としたもの。
奇跡的な力は人の見ていないところで初めて効果的に働く、という古代の奇跡物語によく見られる動機の変形バージョンであろう。
奇跡が働く力をより効果的にするために、当事者以外の第三者がその場にいることを許さないのである。
そうした秘匿性があるからこそ、奇跡行為者と奇跡授与者との間に特別な力が働くのである。
あらゆる場所や人々に奇跡的な力が働くのであれば、もはやそれは奇跡ではない。神もしくはキリストとの特別な関係により生じる稀有な出来事、つまり奇跡ではなくなってしまう。
マルコでは、どちらも癒された盲人は一人であるが、マタイは「二人の盲人」としている。
マタイはマルコの奇跡物語の人数や奇跡性を嵩増して、奇跡性を高めようとする。