●マルコが2番目である理由
パピアス(130-140年ごろ)の著作によると、マルコについてはかなり長い論議を記述しているが、マタイについては、ほんの一言「マタイはヘブライ語で(イエスの)言葉を編集した。それを、それをそれぞれが自分にできる仕方で解釈している」と言及しているだけである。この謎のような短い言葉が、マタイ福音書についての最古の証言である。
この「マタイ」がいわゆる「マタイ福音書」のことであれば、ギリシャ語で書かれている。ヘブライ語で書かれたQ資料のような別の資料を指すのか。「言葉」(logia)は何を指すのか。「それぞれが自分にできる仕方で解釈している」とはどういうことか。「解釈」なのか「翻訳」なのか。種々の学説はあるが、短い、謎のような文なので意味ははっきりしない。
また、パピアスには、ルカとヨハネに関する言及はない。2世紀初頭には、その2つは、正統な福音書としての権威はまだなかったのである。
130年ごろの福音書の権威は、まずマルコが第一であり、マタイはほんの副次的なものに過ぎなかったのであろう。しかも、マタイは護教主義者の教会によって、都合よく編集、あるいはヘブライ語に翻訳されたものという姿が見える。
「霊感」P177:6でヒエロニムスの著作を引用し「まず最初に、キリストに関する福音書をユダヤにおいて、ヘブライ人の言語と文字で書きつづった。それは、信者となった、割礼を受けた人々の益を図るものであった。」とある。4世紀の書物である。
マタイの福音書が書かれてから300年以上たってからの正典を決定した人間の証言である。
1世紀に「ユダヤ人の益を図るため」にユダヤ人の言語で福音書を書く必要は、全くない。なぜなら、当時のパレスチナに住むユダヤ人たちは、当時アラム語化されたヘブライ語と公用語であるギリシャ語を第二外国語として、話していたからである。
「ユダヤ人の益を図るためにユダヤ人の言語で書いた」とは、1世紀に書かれた福音書の言語を理解できなくなっていた「ユダヤ人の益を図って」、「ユダヤ人の言語で書かれた」つまり翻訳された福音書の最初が、マタイ書であったということであろう。
4世紀に4福音書の権威がヒエロニムスによってほぼ確立すると、マタイこそ第一の福音書であるとされてゆく。
マルコが不人気ながらもルカより前の2番目におかれるのは、史上最初の福音書であるという揺るがない事実があるからであると思われる。
マタイを先にするのは、教会の権威を高め、正統性を付与するために不可欠。しかし、2番目は最初に福音書を著わしたマルコにすべきであるという根強い支持層がいたことをうかがわせる。
ルカの福音書は、マルキオン派の福音書として採用された。マルキオンはパピアスと重なる世代の人物で、新約の正典を最初に作ろうとした人物。
しかし、144年ローマの正統派護教主義キリスト教会から破門され、160年ごろ亡くなる。その後マルキオン派は拡大していくが、「異端」として歴史から消滅していく。
マルキオン派が正典として選んだ文書は、ルカ福音書、使徒行伝、パウロの真正書簡のみである。バリバリのパウロ信奉派である。
そして、「異端」とされたマルキオン派がキリスト教の正典を作ろうとしたことが、パウロ神学に抵抗する他のキリスト教派も自派の正典を作ろうとしていく運動へと発展していく。
同時代、モンタノス派と呼ばれる宗派も存在していたが、やはり「異端」とされ、歴史から葬られ、アンチ・モンタニストの証言だけがエウセビウスの「教会史」に記録として残っている。
モンタノス派は、新興宗教的な熱狂を伴った預言活動であった。アンチ・モンタノスは、自分たちの正統的「預言者」とモンタノス派の自称「預言者」と」区別する必要性に迫られた。
最初期のキリスト教では、預言活動も活発であった。旧約聖書中でも、「預言者」は大きな位置を占めている。
モンタノス派が福音書として採用したヨハネには、「聖霊が信者に授けられる」(田川訳16:13)「真理の霊が到来するとき、あなた方を真理全体へと案内するでしょう。彼は自分の衝動で話すのではなく、すべて自分が聞く事柄を話し、来らんとする事柄をあなた方に告げ知らせるからです」(NWT)とある。
正統派がモンタノス派を「異端」として排除するには、「ヨハネ福音書」の正典性を否定すれば、良いのだが、自らの「預言者」としての正統性も否定することになる。
そこで、正統派を継承するアンチ・モンタノス派は、「ヨハネ福音書」だけを福音書として採用する宗派を「異端」するために、「ヨハネ」を含めた4福音書を正典として採用したのである。
一冊だけの福音書しか採用しないのは異端だが、4つの福音書を全部採用するのが正統派だとしたのである。
こうして、4福音書が同等の権威をもつ正典のリストに加わり、護教主義と相まって、4福音書補完説の信仰が生まれてきた。補完説とは、4つの福音書はそれぞれ互いに補完し合って、一つの出来事が書かれているもので、4つで一つの福音書なのであるという考え方である。
三つで一つの神とする三位一体の神を信仰するのと同じようなものであるように思える。三位一体を細部まで理解できる人なら4福音書補完説も十分理解できるのであろうか。(W)
正典リストに四福音書に加えて、合同書簡や種々の書簡が加わっていく。そして、正典リストに入ることこそが「聖書」である証しであるとの信仰になっていくのである。
どの福音書をどの程度重んじるかは、宗派によって異なるが、自説を「正統化」し、他を「異端」とするためには正典リストにある聖句の文言に由来すればよいのである。
こうして、原文の意味より、自説の解釈の方が重要となっていく。
聖書より「カトリック教理」、聖書より「預言の解釈」、聖書より「伝道の業」、聖書より「教会での地位」、聖書より「ものみの塔」となっていく。いつの間にか、「聖書」から「教理」が生み出されるのではなく、「教理」を前提に「聖書」が引かれることにすり替えられていく。
キリスト教のどの宗派も、自分たちこそ正統であり、原始キリスト教の精神を引き継いでいると主張する。聖書の正しい理解に依拠していると言う。もちろんそう信じていなければ、人に教えることなど、できるはずもない。偽善者か何ならかの別の意図を持っていなければ、の話であるが・・・。
カトリック(キリスト教世界)を大いなるバビロンの主要な部分と揶揄するWT組織も、構造的には同じ穴のむじなである。聖書の無謬性を信奉し、マタイ41年説を取っている以上、大いなるバビロンの一部であることを、聖書の独自解釈により示しているのである。