クリスチャンの受け継ぐパウロの「相続」とマタイの「相続」

 

パウロの告別説教の中に「神は聖化されたすべてのものに相続を与える」と出てくる。この「相続」とは何を意味するのだろうか。

使徒20:32

32そして今や、あなた方を神とその恵みの言葉にゆだねる。神は聖化されたすべての者の間で建設し、相続を与えることがおできになる。(田川訳)

 

32 そして今,わたしはあなた方をとその過分のご親切の言葉にゆだねます。その[ことば]はあなた方を築き上げ,神聖にされた者たちすべての間の相続財産をあなた方に与えうるのです。(NWT)

 

使徒20:32 相続を与える

    口語訳「御国をつがせる」、新共同訳「恵みを受け継がせる」とあり、NWT「相続財産」とある。この「相続」とは、実質的には「神の国を相続すること」と、解している。しかし、神学的には違和感がある。

    「神の国」とは、神が自ら直接支配する状態を意味するものであって、人間が相続できるものではない。ユダヤ教の伝統的な考え方からすれば、神が人間(イスラエル民族)に与えた「相続」は「地の相続」であり、「天の国」ではない。

    更にこれが終末論の思想に転化し、マタイ5:5にあるように、終末時に「地の相続者」となる、という思想になる。

  「幸い、へりくだった者。その者たちこそ地を受け継ぐだろう」(田川訳)。

  「温和な気質の者たちは幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです」(NWT)。

(原文の「幸い」は、動詞のない名詞の体言止め表現であり、「幸いです」と言う叙述表現ではない。あるいは「からです」とのNWT訳は意味を限定し過ぎである等の問題は別の機会に)

  ここでははっきりと、受け継ぐものは「天にあるもの」ではなく「地を受け継ぐ」というものである。

  マルコ10:17では一人の者がイエスに近づき、「良い先生、永遠の生命を受け継ぐためには、何をすべきでしょうか」(田川訳)、「善い師よ、永遠の命を受け継ぐためには何をしなければならないでしょうか」(NWT)と質問している。

  ここでは、当時のユダヤ人も、イエスご自身も、受け継ぐことになるものは「永遠の命」であると考えていたことになる。

 

  旧約外典ソロモンの詩篇14:10「主の清きものが至福の中で生命を相続する」とあるように、同じ言い方はキリスト教以前のユダヤ教にもある程度見られる。

 

  この時代の思想体系の中で、単語の意味を厳密に考えれば、「相続」とは「地の相続」か「永遠の生命の相続」であり、「神の王国」そのものを相続するという言い方は成立しえない。同時代のユダヤ教文献でも「この世界を相続する」あるいは「来たるべき世界を相続する」という言い方は出てくるが、「神の国を相続する」という言い方は出て来ない。

 

  ところが、パウロに限り理由はわからないが、終末時に救われる者が「相続」するのは「神の国」である。(コリ①6:10,15:50、ガラ5:21ほか)ほかにはヤコブ2:5にしか出て来ない言葉遣いである。ヤコブ書の著者はパウロの言葉遣いを頭に置いているが、それ以外は、新約だけでなく、旧約はもちろん後期ユダヤ教の諸文献を探しても見つからない。

 

  いずれにしてもパウロは、マタイが受け継ぐと考えていた「地の相続地」やマルコが受け継ぐと考えていたこの世での「永遠の命」ではなく、当時のユダヤ教にもキリスト教にもなかった「天の国」を受け継ぐと信じ、人々に説いていたのである。

 

  当時の信仰によれば「神の国」とは、「神が直接支配する状態」のことであるから、それを人間である自分が相続すると考えるのは、自分が神と同等か、自分が神と特別な関係にある人間と同一視していなければ、出て来ない発想であろう。

  イエスでさえ、自分のことを「エリヤだ」「キリストだ」と呼ぼうとする人間を強く非難している。(マルコ8:28-29参照)それにもかかわらず、パウロの教えを信じる人々、つまり「聖化されたすべての者」は、肉なる人間とは乖離した存在である神が直接支配する神の国を相続できるというのである。ここにパウロの独善的宗教思想の特色が垣間見える。

  エフェソス5:5で「神の国において相続を持つ」という言い方をしているのは、神の国そのものを相続するわけではなく、「神の国」の中に居させてもらって、その場所で相続を受け取る、という趣旨から「おいて」(en)という前置詞を付けたのであろう。

 

   また使徒行伝のこの「相続」をすべてのキリスト教信者がパウロ信者であったかのように「神の国を受け継ぐこと」と解することはできない。ルカがパウロと全く同じ意味で「相続」と言う語を使っているとは限らないからである。

 

  NWT「相続財産を・・・与える」。この相続財産を現在は、天的クラスにとっては、神の王国=天での不朽の命、知的クラスにとっては、王国支配による、地上での永遠の命と解している。また神の王国とは、神が人間の手によらないで設立し、神の支配を実現させる政府、としている。

 

  神の王国を一方では人間が関与することなどできない神が直接支配する状態としながら、他方では神との契約関係にある一部の人が受け継ぐ相続財産としたのである。

  本来人間の関与を排した状態が「神の王国」であるにもかかわらず、イエスと天的クラスが神の代理支配をする状態を「神の王国」、つまり神による「イエスと天的クラスによる代理支配」にすり替えたのである。

  この代理支配の相続財産を144000人に限定することにより、JWだけが「相続財産」を受け継ぐというドグマを誕生させたのである。やがて「相続財産」を受け継ぐのは一部のJWだけであり、大多数は受け継いだ相続財産から益を受ける奴隷として、地上で相続財産の恩恵を受けると拡大解釈した。

  それは、天の相続財産は受け継がないが、その恩恵を受けることが、地の相続財産であると天のものであった相続財産を地の相続財産もあるとまたまたすり替えたのである。原文には「天」とも「地」とも書いていない。「聖化されたすべての者」は同じ相続が受けられるとある。

 

  これはある意味では、天的クラスにはパウロ神学を適用させ、地的クラスにはユダヤ教神学を適用させた、キリスト教パウロ神学とユダヤ教信仰の融合、一種の信仰合同の結果成立させたドグマである。もっともキリスト教そのものが、はじめから純粋なイエスの教えではなく、ユダヤ教とイエスの教えとの信仰合同から成立したものではあるが・・・。

 

  神が人間の関与なし直接設立するのであれば、そもそも神の代理支配として人間を関与させることそのものが矛盾ではなかろうか。人間の側にいかなる理由があろうとも、神の側には、神の国に人間の関与などはじめから必要がないはずである。

  相続財産が天的なものとしてWTが根拠としている聖句(洞-2P78「相続物」参照。エフェ1:14、コロ1:12、ペテ①1:4,5)は、すべて疑似パウロ書簡である。

  またイエスが父の家に住むところが沢山あるから、場所を準備しに行き、再びあなた方を迎える(ヨハネ14:2、3)と言ったのは、ヨハネ福音書の著者のものではなく、後代の教会的編集者の付加文である。無論イエスの言葉ではあり得ず、古代の正統派教会ドグマをイエスの口に置いたものである。

 

  いずれにしても、初期キリスト教信者で、神の国を相続すると信じていたのは、パウロ派だけであり、マタイもマルコも天の相続財産を受け継ぐとは信じていなかったようである。またイエス自身もそのような約束は弟子たちと交わしたこともなかったようである。

 

それにしても、パウロと言う人は・・・。