●手ずから働き、費用の負担を負わせなかったとするパウロの金銭に対する愛
宗教の純粋さを金銭に対する態度に求める人は多い。ペテロやパウロなどの聖書中の重要人物が金銭に対して貪欲であったり、物欲や権欲に腐心している姿などは想像できないことだろう。
告別説教のパウロの言葉もそれを裏付けているかのように思える。果たして、パウロのこの告白を文字通りに信用しても良いのだろうか。
使徒20:33
33銀や金や衣類などを私は欲しなかった。(田川訳)
33 わたしはだれの銀も金も着衣も貪ったことはありません。(NWT)
20:33 銀や金や衣類などは
口語訳は「人の金や銀や・・・」と「人の」をつけている。新共同訳はもっと強調して「他人の」としている。これはoudenosという否定辞の属格の取り方の違いによる。これを「金、銀、衣類」に掛かる否定形容詞と解するなら、単に「金や銀や衣類などを・・・することはなかった」となる。
これを男性属格と解するなら、「いかなる人の」の意味になるから、口語訳や新共同訳のように「人の」「他人の」「金や銀や衣服を・・・ありません」となる。
しかし、これをouthenosとしている写本がある。(P74אAEだからこちらが原文である可能性もかなり高い)。こちらも否定形容詞に取れば、単に否定の強調となり「銀や金や衣類を何一つも・・・」となる。男性属格と取れば「一つ、一人」の否定となり、「誰ひとりに対して、・・・」という趣旨になる。
両方の読みをそれぞれ比較すると、否定形形容詞と取る方が良いように思える。もし、男性属格の意味で取るとすれば、パウロは非常に独善的な偽善者だということになる。
と言うのは、フィリポイの教会から大量の援助資金を貰っておきながら(フィリピ4:15~参照)、自分は他人の金銭を欲しがったことはない、と言っていることになるからである。また使徒18:5でパウロが「ひたすらみ言葉のことに携われる」ようになったのは、シラスとテモテがマケドニアからの献金を持って来てくれたからであろう。
こうしたパウロの行動からして、他の教会にも援助資金をねだることをしたに違いない。(コリ①16:6参照)。これでは、パウロさん、一体どの口が、「何一つの」金銭的な献金や物質的な施しを、「誰ひとりに対して」要求したことがない、などと言うのだ、という話になる。
もっともパウロはさんざん金を送ってもらっておきながら、俺はそんなものを欲しがったことは一度もないよ、と居直ることができる人間である。(フィリピ4:10~、コリ①9:15~参照)極めて忘れやい人だったのか、まるで感謝の念のない人だったのか、ご自分はそうされるに価する極めて優秀で徳の高い人間であったと思っていたのか、本人に聞かないと本当のところは解らない。
ともかくパウロ文書とパウロと宣教旅行を同行したルカの記述から見えるパウロの人物像は、必ずしも好ましいものではないようである。
ここも、無理に聖人パウロを演出し、男性属格と解すると、無理が生じてくる。単に否定形容詞と取り、「人の」「他人の」などと強調しない方が無難であろう。
NWT「だれの銀も金も着衣も」。否定辞を男性属格と取ったもの。NWTの底本となっているKI(王国行間逐語訳)は、oudenos=of-no-oneとしている。any oneではなく、outhenosのno oneの意味に訳している。英訳はそれに引きずられてno man’s`と訳している。意味に大差はないが、より強調されているので、より痛い意味になってしまった。
まるでどこかの統治体のように・・・。