●山上の垂訓③幸いな貧しい者とは・・・?
山上の垂訓に見られるイエスの言葉の真意を探ってみる。
マタイ5:3
「幸い、霊にて貧しい者。天の国はその者たちのものである」。(田川訳)
「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです。天の王国はその人たちのものだからです」。(NWT)
ルカ6:20-26
「幸い、貧しい者。神の国は汝らのものである」。(田川訳)
「あなた方、貧しい人たちは幸いです。神の王国はあなた方のものだからです」。(NWT)
原文の直訳は語順を重視すると、「幸い、霊にて貧しい者。天の王国はその者たちのものである。」(マタイ)
「幸い、貧しい者。神の国は汝らのものである。」(ルカ)
「幸い」の後、動詞がなく「貧しい者」という主語が来る倒置表現である。
マタイの九つの幸いな者、ルカの3つの幸いな者、すべてが、同じ「幸い、・・・の者」という言い方である。日本語は名詞を動詞的な意味で用いるから、「幸い」とある無意識に「幸いである」という状態を示していると考えがちである。
しかし、ギリシャ語の「幸い・・・」という言い方は、目の前にいる相手に対して「幸い」と言って祝福する言い方である。相手の上に手をかざして、自分の手から相手に「祝福」が伝わっていくことを願い、その相手に「幸い」と言って呼びかけるものである。
決してイエス独自の言い方ではなく、旧約聖書伝来のものの言い方で、複雑な意味を含んでいる。「幸い」は神より与えられる祝福であり、「幸い」があなたに届くようにという願いと祈りであるが、
1)この世で幸運を得て、繁栄できるように」と言う意味から、
2)「宗教的に正しい信仰の持ち主が神によって祝福を得る」という意味、
3)さらには「倫理的に道徳的な生き方をする人間が正しい」と言う意味まで、
多種様な意味を表現する。
「幸い、知恵を見出す者」(箴言3:13)・・・①
「幸い、主により頼む者はみな」(詩編2:12)・・・②
「幸い、貧しい者のことをおもんばかる者」(詩編41:2)・・・③
これらの聖句の「幸い」を、NWTは最後に持って来ているが、語順を重視して訳すと、こうなる。
「幸い、貧しい者」が多用な意味を持ち得るのは、アラム語が動詞を省略する言い方にもある。補う動詞により、「貧しい者が幸いである」という叙述文にも、「貧しいものこそ幸いである」という強調文にも、「貧しい者も幸いになるだろう」という未来予測文にも、願望と嘆願を込めた「貧しい者こそ、幸いあれかし」という意味にもなる。
基本的には、その相手に対して、「幸いあれかし」と祈る趣旨であるが、同時に現にその祝福が与えられているのだから、「汝は幸いである」という趣旨にもなりうる。他方、相手の祝福を祈ると言っても、節なる思いを込めた願望であるかも知れず、是非そうならねばならぬという強い意思表示であるかもしれない。
イエスは「幸い」という神からの祝福の言葉が日常的にも宗教的にも様々な意味で言われる環境で生きていた。宗教的な抑圧をしながら貧しい人々をと搾取されているユダヤ教宗教家に、イエスは逆説的な意味を込めて語りかける。
まるで自分が神の代弁者にでもなったつもりで、「幸い」「幸い」と自分たちの基準で人を選んで神からの祝福だとおっしゃるが、もし、本当に「幸い」と言って呼びかける相手がいるとすれば、「貧しい者」をおいて他にないではないか。
「貧しい者」に「幸い」が訪れないのであれば、一体何のための祝福なのか?
そこで、イエスは敢えて宣言する。
「幸い、貧しい者」と。
マタイは、この台詞には無理があることを良く知っていた。だから、言葉を補って、「霊において」と付け加えた。そうすれば、実際に「貧しい者」のことではなく、「霊」において奢り高ぶっていない者、人間関係において謙虚かどうかだけではなく、神に関して謙虚である者が祝福の対象となってくる。
ユダヤ教では、「貧しい者」とは必ずしも経済的社会的な意味で「貧しい者」と言う意味だけでなく、「神に対してへりくだった者」の意味でも用いられた。
西暦前1世紀に「ソロモンの詩」と呼ばれる一群の詩を作った敬虔主義者の集団は、自分たちを「貧しい者」と呼び、神の祝福により多く預かれる者と考えていた。
ロシア人が貧しい職業の名前を子供に名付け、神からの祝福を願うのに似ている。
けれども、イエスは具体的現実的な意味で「貧しい者」と言っているのは、すぐ続けて「飢える者」「泣く者」についても「幸い」と宣言していることにより、明らかである。
実際には「幸い」ではありえない「貧しい者」を捕まえて「幸い、貧しい者」と宣言してみても、「幸い」になるわけではない。豊かな者が貧しい者を捕まえて「幸い」と呼びかけることは、一種の暴力である。
しかし、「幸い」なのが豊かな者だけであるというようなことがあってはならない。金持ちが幸福で、貧しい者は不幸だ、ということが当然のこととして認められてよいはずなどない。もしも、この世でだれかが「幸いである」と祝福されることがあるならば、「貧困にあえぐ者」を除いて誰が祝されて良いものか?
もしも、神の国に入ることがあるなら、「貧しい者」こそ、まず入るべきであろう。「神の国」は「貧しい者」のものなのだ。きっとそうしてやる。
というわけで、イエスは、「幸い、貧しい者」の後に、「神の国は彼らのものとなる」と付け加えた。「神の国は彼らのもの」というイエスの表現は、イエスの怨嗟の叫びでもある。メシアによる神の国を待望していたユダヤ教宗教体制批判でもあった。
マタイは「霊において」と付け加えたものだから、5:5でも「幸い、へり下った者。その者たちこそ地を受け継ぐだろう」と70人訳の詩編36:11を引用し、5:3との対句のようにした。そうすれば「地を受け継ぐ霊において貧しい者」とは「へり下った者」という意味になり、「天の王国はその者たちのもの」ということになる。「幸い、貧しい者」と呼びかけたイエスが心の叫びも、「神の国は彼らのもの」という願いと支配者に対する皮肉も、消えてしまったのである。
ルカには、「幸い、柔和な者」の聖句はない。「貧しい者」「飢える者」「泣く者」が連続している。神の王国を待望しているというユダヤ教の教えが正しいのであれば、まず彼らこそが神の国において救われるべきであろう、というイエスの切なる嘆願と慟哭の叫びのような怒りと痛々しさがまだそこにはある。イエスが社会的弱者に向けて、「幸い」とのことばをかけ、「貧しい者を幸い。神の国は汝らのもの。」と説いたことの真意である。
マタイ学派や権力に擦り寄った者たちが、イエスの言葉の逆説的批判精神を骨抜きしたのである。支配者的宗教指導者に好都合の清貧を説き、神の名のもとに、民衆の反抗と批判を封じ込めたのである。
田川健三著「イエスという男」、「マタイ、マルコ、ルカの註と解」参照