小ネタ① パウロが言う「誤り」とは・・・

 

第一テサロニケ2:3

「何故なら、我々の呼びかけはまどわしや汚れから出たものではなく、あるいは騙しごとでもない」(田川訳)

 

「私たちがする勧めは、誤りや汚れから出るものでも、欺まんを伴うものでもありません」(NWT)

 

   「呼びかけ」「勧め」を新共同訳は「宣教」と訳している。原文はparaklesisで字義的には「そばで呼び掛ける」という意味である。ここでは「福音」を人々に呼びかける、という趣旨であるから、人々に伝える音信を指している。

 

   その音信をNWTは「誤り」から出たものではない、と訳している。この「誤り」、田川訳「まどわし」の原文はplaneという語で「相手を誤らせること」という意味である。つまりパウロが言っているのは、自分たちが伝える音信は、相手をまどわすつもりも、誤らせるつもりのない真実から出ている、という趣旨である。

 

   それをNWTのように単に「誤り」と訳してしまうと、「相手の誤り」ではなく、「自分の誤り」から出たものではない、という趣旨にも解せることになる。つまり、WTが伝えた聖書の解釈は、伝える側のに誤らせる意図があったわけではなく、受け取る側が誤って解釈した結果「誤り」となっただけである、と解釈可能な表現となっている。

 

   さすが一切の責任を組織ではなく、信者に押し付けようとする無責任組織が字義訳と謳うだけの聖書であると感心したのでした。(W)

 

解釈を変更した時点で「以前の解釈」は「誤り」であることを示しているのだが、「光が増した」と称して「誤り」であることを認めない。「真理」であったものが「真理」ではなくなったのである。その「新しい解釈」もやがて解釈が変われば「真理」ではなくなる。

   WTの教えの多くは、この聖句とは異なり、「誤り」や「汚れ」から出ており、欺瞞を伴うものでしかないように思うのですが・・・(W)

 

続く2:5からしても、「強欲さを隠す見せかけ」でしかなく、「神が証人となってくださる」ことは決してないであろうと思われる。

 

 

 

 

   もっとも口語訳・新共同訳も「迷い」と訳しているので、同罪ですが・・・。