●神はイエスを「躓きの石」として本当に遣わしたのか?
JWに限らず多くのキリスト教信者にとって、イエスとは旧約で預言されていた「躓きの石」であり、多くのユダヤ人たちは、神が旧約を通して預言していたにもかかわらず、退けてしまった民族である。イエスを預言されたメシア、すなわち「躓きの石」として見分けたユダヤ人だけが、第一に救いにあずかる恵みを付与された民であるが、イエスの十字架以降は、ユダヤ人に限らずイエスをメシアとして信頼する他の民族も含め、すべての人々に恵みが施されると信じている。
その信仰の根拠の一つのとなっているのは、ローマ9:32‐33にある。
32「何故か。信からではなく、業績からだったからだ。彼らは障害の石にぶつかったのだ。 33「見よ、シオンに障害の石を、躓きの岩を置く。これを信じる者は、恥を蒙ることがない」と書かれてあるように。」(田川訳)
32「どんな理由のためですか。彼がそれを、信仰によらず、業によるかのように追い求めたからです。33「見よ、わたしはシオンにつまずきの石と、とがのもととなる岩塊とを据える。だが、それに信仰を置く者は失望に至ることがない」と書かれているとおりです。」(NWT)
この中で、まず確認しておきたい言葉は、パウロが旧約に「書かれてある」として引用している、「障害の石」「躓きの岩」という語。
パウロが引用しているのは70人訳であるから、秦剛平訳でイザヤ28:16と8:14を確認してみる。
8:14「もしおまえがその方に信を置くならば、その方はお前にとって聖なるものとなる。お前たちは、石のような躓きや落下する岩石に(遭遇するようにして)その方に出会うのではない。しかし、ヤコブの家は罠の中に(置かれ)、エルサレムに住む者たちは落とし穴の中に(置かれる)。」
28:16「それゆえ、主はこう言われる。「見よ、私はシオンの礎石に高価な極上の石を据える。その礎石にこの上もなく貴重な隅石を(用いる)。彼に依り頼む者は恥じ入ることがない。」
8:14は「障害の石」に信仰を置くように勧めているのではなく、あくまでも、神に信を置くように促している文である。「障害の石」とは、神自身、あるいは神の代理者を指しているのではない。また、「障害の石」「躓きの岩」が「シオン」に置かれるとは言っていない。「ヤコブの家」=「エルサレムに住む者たち」が「罠」=「落とし穴」に置かれる、と言っているだけである。
28:16の「シオンの礎石」と8:14の「障害の石」「躓きの岩」とは同一のものを指しているのではない。「シオンの礎石」とは、エルサレム神殿の礎石のことである。その「高価な極上の石」=「貴重な隅石」が「障害の石」「躓きの岩」であることは28:16のどこにも示唆されていない。
また、「彼に」とあるが、「彼」ではなく「それ」=「礎石」と読むこともできる。「彼」とするのであれば、当然「神」を指すことになるし、「それ」(礎石)とするのであれば、神殿を指すことになる。いずれにしても、依り頼む対象は「神」であり、それ以外のものではない。
イザヤは「シオンの礎石」で表象されるエルサレム神殿、あるいは神殿を備えた「彼」=「神」に依り頼む者が恥じ入ることがない、としているだけである。繰り返すが、イザヤのどこにも「障害の石」「躓きの岩」に「依り頼むように」とは書かれていない。
つまり、パウロがイザヤの二つの聖句を合成して、「シオンに置かれる障害の石、躓きの岩」をキリストである、と解釈し、実際には書かれていないのに、「書かれてある」としたのである。
もっとも、キリストを「障害の石」とする考えは、パウロだけのものではなく、マルコ12:10‐11(並行マタイ21:42、ルカ20:17)や使徒4:11にも見られる。そちらは詩篇118:22を適用している。
つまり、ユダヤ人のキリスト信者たちの間には、初期のころから、イエスを「建築者が退けた隅石」あるいは「障害の石」「躓きの岩」とする考えがあったのであろう。
後代のパウロ系文書である第一ペテロ2:6-8には「家造りらが廃棄した石」「隅のかしら石」「障害の石」「躓きの岩」という表現が「キリスト」に適用され、並んで出て来る。第一ペテロの著者は、パウロがローマ9:33でイザヤ8:14を引用していることを知っていて、詩編118:22に出て来る「隅の石」と同義に扱っている。しかし、彼がマルコ福音書を知っていたとは考えにくい。
また、使徒4:11では、ペテロの証言として詩篇118:22の「建築者が退けた隅の石」を取りあげている。おそらく、エルサレム教会では、最初期から、キリストの受難に関して詩篇の聖句を適用することが伝統的に行なわれていたのだろう。
イザヤ書の「障害の石」(proskomma)のもととなっている動詞(proskopto)に関しては、第一ペテロ2:8以外は、パウロ文書に6回出て来るだけである。(コリ①8:9ロマ9:32,33,14:13,20、否定の接頭語付きでフィリ1:10)
つまり、新約ではパウロ系文書に限定されている。イザヤ書の個所を「キリスト」に適用させる概念は、パウロが持ち込んだものかもしれない。
第一ペテロの著者は、ペテロたち初期エルサレム教会で、キリストが詩篇の「隅石」であるという概念とイザヤの「障害の石」がキリストであるとするパウロの概念を融合させて、文書を作っていると思われる。
ローマ9:33を「障害の石」「躓きの岩」=「キリスト」という前提で読むなら、違和感がないかもしれない。「障害の石」の(proskomma)元にある動詞proskoptoは、「ぶつかる」「衝突する」という意味である。「障害の石」と「躓きの岩」とは同義であるが、「躓き」(skandalon)の字義的な意味は「罠」である。西欧語の「スキャンダル」の語源となった語。
文字通りに、神が置いた「障害の石」「躓きの岩」に「信を置く」と読むのであれば、「障害」となるのであるから、「恥を蒙ることがない」とするのは矛盾する。あるいは「信をおいて」「躓く」のだから、「恥を蒙る」はずである。それらに「信を置く」のであれば、「障害」あるいは「罠」となるはずだからである。
ローマ9:33で確認しておきたいもう一つの言葉は、「恥を蒙る」(田川訳)「失望に至る」(NWT)と訳しているギリシャ語kataischyno。字義的な意味は、From kata and aischunomai; to shame downであり、「恥をかく」。
NWTが何故この語を「失望に至る」と訳したのだろうか。
KIは、kataischuthesetai=will-be-made-ashamedとしている。字義的な意味は「恥を蒙る」という意味であることを示している。ところが、英訳は、will not come to disappointmentとしている。
この動詞は、5:5にも出て来る。そこでもNWTは「失望に至る」と訳している。全文は「その希望は失望に至ることはありません」。「希望」が主語であるから、「恥を蒙ることはありません」でも「失望に至ることはありません」でも意味は大して変わらない。しかし、KIはやはり5:5のギリシャ語をis-putting-to-shameと訳しているのに対し、英訳では、lead to disappointmentとしている。
9:33の主語は、「これを信じる者」(田川訳)「それに信仰を置く者」である。「これ」あるいは「それ」とは、パウロ解釈による「障害の石」「躓きの岩」を指している。
この個所は、パウロが自分のキリスト論を信じていることを主張しているだけである。自分が誠実に神が「シオンに障害の石、躓きの岩」を置き、いわば「キリスト」がユダヤ人にとってだけでなく諸国民にも試金石になっている、と信じているだけである。
パウロが引用したイザヤの聖句は、純粋なる預言の成就というのではなく、パウロが自分の考えるキリスト論に適合するようにイザヤ書の異なる個所の文言を合成したものであることを確認した。
WTも無関係の聖句を組み合わせて、自説を「聖書に書かれている」と主張する。「誕生日」や「乾杯」に関する解釈などの生活に関係する規則にとどまらず、「イエスの誕生年」や「イエスの宣教期間」や「家から家の宣教活動」に関する教理に至るまで、何事も「聖書に書かれている」あるいは「聖書の原則に基づいている」と主張する。
「聖書」から矛盾を指摘すると、それは解釈の問題だと問題をすり替えるにもかかわらず、他の解釈は認めない。あるいは、やがて解明される、と問題を先送りにすることが、真の信仰者の採るべき態度であると主張する。
1919年に「忠実で思慮深い奴隷」として任命されているが、「すべての持ち物を委ねられているわけではない」。それゆえ、不謬ではないし、これからも解釈変更もあるのは当然であるという。
神が「すべてのもの」をWTに委ねていないのであれば、ほかのキリスト教にも「真理」の一部が委ねられているはずである。それにもかかわらず、「唯一の神の組織」であることの看板は、絶対であると主張する。
WTが説く聖書解釈が、JW信者にとって、文字通りの「つまずきの石」「とがのもととなる岩塊」となって、「失望に至ることがない」のであれば幸いです。
イザヤ8:14には「ヤコブの家は罠の中に(置かれ)、エルサレムに住む者たちは落とし穴の中に(置かれる)」とある。「ヤコブの家」がWT組織であり、「エルサレムに住む者たち」がJWの対型のでしょうか。
「聖書全体は神の霊感を受けたものである」と言いながら、「予型と対型」に基づく解釈は放棄するという。旧約書かれていてもいなくても、WTやJWには無関係だと思いますが、そうでないことを願います。
自分が「罠」や「落とし穴」に置かれていると見るのか、パウロのように「聖句を誤用」しながらも「キリスト」を見分けたとするかどうかは、信仰の問題ですから、どうぞご自由に。