●「救い」や「義」のために、洗礼は必要なのだろうか?(ローマ10:9-11)

 

WTは、「救い」と「義」のためには、洗礼を受ける必要がある、と教えている。

 

その理由は、第一にイエスが洗礼を受けたという模範に倣うため。(マルコ1:9,10ほか)

第二に、復活後のイエスが、弟子たちに、洗礼をするように命じたため。(マタイ28:19,20)

第三に、聖書が「救いのためには公の宣言をする」ことを要求しているため。(ローマ10:10)

ほかにも、使徒たちの活動の中にある、初期クリスチャンの事例などを理由としている。

 

イエスがバプテストのヨハネから洗礼を受けたというのは事実であると思われる。

復活後のイエスが、弟子に対して洗礼を要求していた、という言葉が本当にイエスの言葉であるかどうかに関しては、疑問が残る。しかしマタイ28:19-20に関するその根拠についての検証はここでは行わない。

 

今回取り上げるのは、ローマ10:10が、本当に洗礼を要求しているのかどうかという点。

 

すなわち、自分の口でイエスが主であると告白し、自分の心で、神が彼を死人の中から甦らせたのだ、と信じるならば、救われる。10何故なら、心で信じられてにいたり、口で告白されて救いにいたるのである。11すなわち書物が言っている、「彼を信じる者は誰も辱めることがない」と。(田川訳)

 

その『あなたの口の中にある言葉』、つまり、イエスは主であるということを公に宣言し、神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら、あなたは救われるのです。10人は、義のために心で信仰を働かせ、救いのために口で公の宣言をするからです。11聖書は、「彼に信仰を置く者はだれも失望させられない」と言っています。(NWT

 

 

10節の「信じられて」「告白されて」という動詞は、原文では主語なしの受身形となっている。それで田川訳では、日本語としてはぎこちないが、受身であることがわかるように訳されている。

 

ところがNWTでは、「人」を主語にして、「信仰を働かせ」「公の宣言をする」と能動的に行動することが要求されているかのように訳されている。

 

能動と受動では主語が異なる。原文では主語が明示されていないが、人が主語なのではなく、もしも人にそういうことがなされるなら、という趣旨である。つまり、厳密に言うと、「自分が能動的に信じるなら」という意味ではなく、9節の趣旨をうけて「信じられる」ということが生じるなら、という意味である。

 

「義にいたる」(eis dikaiosune(_)n)「救いにいたる」(eis so(_)te(_)nan)の「にいたる」に相当する原文は到着点を示すeisという前置詞である。

そうであるなら、到着点である「義」にいたる、と言っているのである。「救い」に関しても同じである。「救い」のためには「告白する」ことが要求されているという意味ではなく、「告白がなされる」なら、到着点である「救い」にいたる、という意味である。

 

パウロとしては、人間が自力で「義」に到達したり、「救い」を獲得したりするわけではない、と考えているので、到着点を示す前置詞eisを使っているのである。

 

 

NWTはそれを、「人は義のために心で信仰を働かせ、救いのために口で公の宣言をするからです」と訳した。

 

「信仰を働かせ」と能動で訳しているが、KIはpisteuetai=it-is-being-believedと原文が受身形であることを示している。しかし、英訳は、one exercises faithと原文の主語が人ではなく、非人称単数itであるにもかかわらず、oneと不特定の人とし、しかも単にbelieveとするのではなく、exerciseという原文にない語を付加している。

つまり「信仰」に関して特別な課題を「実践」することが要求されていることを示唆しているかのように読めるようにしている。

 

また「義のために」に相当する原文のeis dikaiosunenをKIがinto righteousnessとしているにもかかわらず、英文がfor righteousnessとしている。これでは、到着点が「義」である、というよりも、「義」という目標を獲得する目的のために、という趣旨になり、「信仰を働かせることにより現在でも義を獲得できる」という趣旨に読める。

 

これでは、特別な課題、つまり野外宣教などを「実践」していない人、とは「信仰を働かせていない人」であることになる。そのような人は、「義」を獲得するという目的を追い求めていない人であり、最終的にも「義」を獲得できない、という意味に読ませたいのだろう。

 

事実10:6では原文の「信からの義」(ek pisteo(_)s dikaisune(_)を「信仰の結果である義」と訳している。これも「信仰を働かせた結果、現在でも義を獲得できている」という趣旨に解しているのだろう。

 

「信からの義」とは3章で展開されているパウロの救済理論の標語のようなもので、「律法の業績からの義ではなく、キリストの信からの義」という意味である。キリストに対する信仰を持つ結果、「義」を獲得できている、という意味ではない。キリストに対する信によらないのであれば、結果として「義にいたる」ことは出来ない、という意味である。

 

「救い」に関しても同じである。

 

「口で告白されて救いにいたる」とは、「キリスト信者であることを告白して、最終的な救いを獲得する」あるいは「獲得する道を歩む」という趣旨ではない。

 

原文は「信じられて」と同じく受身であるから、前文を趣旨を受けて、「そういうことがなされるなら」という趣旨である。「自分の口でイエスが主であると告白する」ということがなされるなら、「救いへといたる」ことが可能になるであろう、という趣旨である。

 

NWTは「救いのために口で公の宣言をするからです」と、「救い」を獲得するためには「公に宣言する」、つまり人々の前でキリスト信者であることを公言する必要があるという趣旨にしている。

それで、バプテスマとは、キリスト信者であることを心で信じるだけでなく、救いのために整えられたことを示す場であり、神だけでなく、信者の前で、二つの質問に「はい」と答える事により、口で公に宣言することである、という解釈しているのだろう。JWもその解釈に何の疑問を持っていない。

 

しかし、9節と10節は基本的には同じ趣旨の文である。9節の「自分の心で」(en te(_) kardia=in the heart)と「自分の口で」(en to(_) stomai=in the mouth)は、対句になっている文であり、10節のどちらも対格の「心で」(対格)と「口で」(対格)に対応している。

 

それをNWTは9節の「自分の口で」を『あなたの口の中にある言葉』と訳し、9節と10節の対比を無視して、まるで別の引用文であるかのように訳している。それならなぜ10節の「口で」を「あなたの口の中にある言葉で」と訳さないのだろうか。

 

「自分の口の中にある言葉」で信仰告白をすることにより、救いの道を歩むことができるようになるのであれば、組織が用意したバプテスマに関する質問に同意する必要などなくなることを悟られたくなかったのだろうか。

 

また9節では「公に宣言する」と「信仰を働かせる」は対句になっているのであるから、「救い」のために、あるいは「義」のために、宣教奉仕などの「信仰」のための特別な課題を「実践する」することは何も要求されてはいない。

 

さらに「告白する」(homolegeitai)という一語の動詞を、わざわざ二分割し「公に宣言する」と訳している。「公に」という副詞が原文にあるわけではない。homo(一緒に)という接頭語を、強引に訳したものと思われる。

KIでは、it-is-being-confessedであるのに、英訳が、one makes public declarationとしているのである。

 

しかも、この文脈でパウロは、洗礼と「義」あるいは「救い」との関連については、何も述べてはいない。

 

11節で「彼を信じる者は誰も辱められることがない」と旧約から引用しているのは、ローマ9:33で引用したイザヤ28:16の文をもう一度繰り返しているだけである。

9:33の原文代名詞は「躓きの石」を受けているので、日本語では「これ」となるが、10:11では、「イエス」を受けているので、日本語では「彼」となるだけで、原文のギリシャ語では全く同じ文である。

 

以上を考慮すると、ローマ10:9-10を根拠に、聖書が信者に洗礼を要求している、ということは、どうやら出来ないようである。

 

原文を組織の教理に適合するように原文を無視して作文することが、字義訳であると信じるのであれば、それも信仰なのでしょう。どうぞご自由に。

 

しかし、NWTが「原文に忠実である」という看板は、神に忠実なのであれば、聖書に敬意を払っているのであれば、降ろしていただきたいものです。無理だとは思いますが、是非、WT教理に忠実な改竄が混入していると認めていただきたいものです。

 

またすべてのJWが聖書的に愛ある人々の集団であるというのであれば、「愛は……真実なことと共に歓ぶ」のですから、「真実」に基づいて行動していただきたいものです。