●ヤコブ書に関する田川訳の解説とNWTの解説に関する註解
WTは、ヤコブ書の著者が、イエスの兄弟「ヤコブ」である、としているが、その根拠として、弟子たちの中で顕著な存在でありながら、自分を単に「神および主イエス・キリストの奴隷ヤコブ」と呼び、イエスの弟という肩書を利用しなかった謙遜な人物であることを理由として、印象付けている。つまり、聖書中の著名人を聖者とする聖者信仰を根拠とした解説である。
しかし、ヤコブを含む聖書の中に登場する「イエスの兄弟たち」は、「イエスを気が変になってしまった」として、ユダヤ教の教条主義にとどまらせようとした人物であり、イエスから「兄弟」と呼ばれるに価しない「神のご意思を行なっていない」人物として描かれている。(マルコ3:21,31-35参照)
イエスの弟「ヤコブ」は、当時のキリスト教会の中にあっても最もユダヤ主義に傾いていた人物であり、ヤコブの書の内容とはとてもそぐわない。ユダヤ教の環境で生育したユダヤ人がヤコブ書の著者とは考えにくい。ヤコブ書には、旧約からの明確な引用と断定できる個所もなく、七十人訳の影響を受けたギリシャ語ではなく、生来のギリシャ語人間でないとありえない水準のギリシャ語で書かれている。
ヤコブは、ギリシャ語世界に積極的にキリスト教の宣教をなそうとした人物ではなく、むしろそうしようとしたパウロの足を引っ張りつづけ、最終的にはエルサレムの神殿で逮捕される原因を作った人物である。(使徒21:17-32参照)ギリシャ語世界で広く非ユダヤ人にキリスト教を伝えようとした流れの人たち(ヘレニスト)を何とかして押さえこみ、キリスト教をユダヤ教の枠内に閉じ込めようとし、ペテロ以後、エルサレム教会の指導者となった人物である。
このエルサレム教会を中心とした「ユダヤ人キリスト教」あるいは「ユダヤ主義キリスト教」は、二世紀に入れば、ギリシャ語のキリスト教会では「異端」として退けられる対象となっていた。エルサレムを中心としたユダヤ人社会の中だけで活動し、広く地中海全体で活動していたギリシャ語のキリスト教を敵視していた人物が、広く一般のキリスト信者を対象にした文書をギリシャ語人間らしいギリシャ語で、特定の会衆や個人に宛てたのではない「公同書簡」を書くことができたのだろうか。
WTの解説は、執筆年代にしても、あくまでもイエスの弟ヤコブが著者であることを前提にした解説である。
イエスの弟たちに対する聖者伝説が造られるようになったのは、彼らについての実際の記憶がほぼ消滅した後になってからのことであり、それもごく僅かなものに過ぎない。
WTが証拠としている「初期の宗教著述家たち」とは、すべてイエスの弟たちに関する聖者伝説が確立された以降の人物たちであり、聖書的な根拠に基づくものではない。
WTの解説では、ヤコブ書の内容がパウロの文書と調和していることを印象付けようとしているが、ヤコブ2:14-26の文章とパウロ系文書の徳目の扱い方は、基本姿勢からして異なっていることを無視している。どちらも「善を行ない、他の人と分かち合うことを勧めている」から、パウロの訓戒とヤコブの訓戒は調和しているというのは、かなり乱暴な論理である。
一例をあげておく。
2:14「我が兄弟たちよ、もしも誰かが、信仰を持っていると言いながら行為を持たないとすれば、それが何の役に立つか。信仰がその人を救うことなぞ、できないではないか」。(田川訳)
「わたしの兄弟たち、ある人が、自分には信仰があると言いながら、業が伴なっていないなら、それは何の益になるでしょうか。その信仰はその人を救うことができないではありませんか」。(NWT)
「行為」(田川訳)、「業」(NWT)と訳している名詞のギリシャ語は、ergonの複数形ergaであり、12節の「行なう」「行動する」(poieite)、13節の否定辞の付いた「慈悲をなさぬ者」「憐れみを実践しない人」(me poiesanti)という動詞に呼応させている。
この(ergon,erga)というギリシャ語は、パウロ文書では、田川訳では「業」「業績」「行ない」などと訳されているが、NWTでは、ほぼ一貫して「業」と訳されている。
この語は、パウロが、「信仰」(pistis)と対応させて、用いている語である。(ガラ2:15~、ロマ3:2~ほか)パウロが、「行ない、業績」(ergon,erga)なしに、ただひたすら「信」(pistis)のみによって「義とされる」「義と宣せられる」と繰り返し主張している。
それに対して、ヤコブ書の著者は、パウロ教信仰の要の語の一つである「行ない、業績」(ergon,erga)という語を用いて、実践的な行動のない「信仰」なんぞ、何の意味があるのだ、と批判しているのである。
この文をパウロ批判ではないと主張するのは、聖書の聖典の中に、聖典中の正典たるパウロ大先生の書物を批判する文書など存在するはずがないとする護教主義に過ぎない。
あるいは聖書には同一の信仰しか書かれていないとする聖書霊感説信仰を前提としたものである。
学者の中にはヤコブ書の批判の相手は「間違ったパウロ派」とする方もおられるが、パウロ自身の文書を念頭においているのだから、パウロ自身を批判していることは明らかである。
ヤコブ書の著者とパウロの根本的な違いの一つは、パウロは「法」の問題を議論する時に、ユダヤ教の「律法」を離れて考えることはない。だから「法」(nomos=旧約律法)をいくら実践しても、神に認められるわけではない。義とされるためには、神の救済行為に対して絶対的な「信」(pistis)を持つことのみが重要なのだ、と言い切った。これはユダヤ教律法支配に対しては、非常に優れた批判であったが、それだけを言い続けた。
しかし、あくまでもユダヤ教律法主義前提の信仰義認であり、ユダヤ教律法とは無縁のヘレニズム社会においては、根底にユダヤ教の思想があるわけではないから、視野が広がって行かない。
NWTは、ergon,ergaを「業」と訳し、WTはその「業」を「宣教活動」を含む、クリスチャンとしての「行ない」という意味に解させている。
しかし、パウロが言っている「業」(ergon)とは、旧約律法に呼応した「業」、つまり、旧約律法を遵守することによって成し遂げられる「業績、行ない」のことを言っているのであり、クリスチャンとしての「業」である「宣教活動」のことなど意味していない。それで、JWの多くは、パウロの「信仰義認」の意味をヤコブの「業の伴う信仰」と矛盾しないと考えるのであろう。
しかし、パウロが自分の著作の中で述べている「業」(ergon,erga)とは、あくまでも、旧約律法の「業」という意味であり、パウロが言う「法」(nomos)とは「旧約律法」のことであるが、ヤコブ書の著者が言う「法」(nomos)とは「旧約律法」のことではない。当然「業」も、旧約律法に基づく「業、行ない」という限定された意味ではない。
そこでヤコブ書の著者は、「法」というのはユダヤ教の「律法」を前提にしているようなものではなく、「自由の法」なのだ。我々は何よりもまずその「法」を実践しなければならない。現に目の前に困っている人がいたなら、その人を助けるのが、「法」の実践なのだ。「義とされる」ことだけを意識して、「信」のみを追求したところで、神の「裁き」をまぬがれることはできず、人間はすべからく「裁かれる者」なのだ。「信仰」があろうと「慈悲をなさぬ者」は、慈悲なく裁かれるのである。「行為」(ergon)を別にした「信仰」(pistis)など、存在しえない、「実際の慈悲行為」こそが「法の実践」というのがヤコブ書の主張である。
ヤコブ2:23で七十人訳創世記15:6が引用されているが、その個所はパウロが「信による義」の論証のために好んで用いる箇所である。(ロマ4:3、ガラ3:6)。ヤコブ書の著者は、パウロが創世記のその箇所を引用していることを知っていて、批判を展開しているのである。
それゆえ、NWTが解説する、ヤコブ書とパウロ書簡には矛盾がないとするのは、あまりにも強引過ぎる論理の飛躍である。
ガラテア書の霊の実やエフェソス書やコロサイ書の徳目の表やヘブライ書の善行の勧めと調和しているとしているが、ヤコブ書とでは、視点が全く異なっている。
パウロ系書簡では、あくまでも「教師」「教え手」による一般のキリスト信者に対する説教、信者が身につけるべき特質という視点で書かれている。(ガラ5:22-24、エフェ4:22-24、コロ3:5-10、ヘブ13:16)
一方ヤコブ書では、一般のキリスト信者に対する呼びかけという体裁をとってはいるものの、その対象はパウロ系キリスト教信者、それも「教師」に対する批判となっている。
例えば、WTでは真の崇拝の特色として引用されるヤコブ1:26-27には「自分では正しい方式に従う崇拝者であると思っていても、無益である」と批判されているキリスト教について論じられている。
「清く、汚れのない崇拝の方式」についてヤコブ書の著者が述べているが、「清い」(katatharos)という語は、第一テモテ1:5,3:9、第二テモテ1:3,2:22、写本の読みにもよるが第一ペテロ1:22、テトス1:15、などに出て来るパウロ系キリスト教用語である。彼らは、世の一般の人間に対して、自分たちだけは「清い」「清い者」であると主張していたのである。
また、「汚れのない」(amiantos)という語も、第一ペテロ1:4、また同根の動詞(miano)を用いて自分たちが「異端」として排除している者のことを「穢れた者」(memiasmenois,memiantai)と呼んでおり、こちらもパウロ系キリスト教用語である。
つまり、ヤコブ書の著者は、パウロ系用語を用いて、もしも自分たちが「清い、汚されていない、汚点のない」存在だと主張するのであれば、まずまわりにいる孤児ややもめを世話しなさいよ。社会的弱者をほっておいて、何が「汚点のない」、「清い」などとほざいておられるのだ、無益でしかない、と批判しているのである。
ヤコブ3:1では、その批判の矛先がはっきりと「教師」たちに向けられていることが明らかである。パウロ系教会の教職制としては「司教」「長老」「奉仕者」(フィリ1:1、テモ①3:2、5:17,19、ティト1:5,7、ペテ①5:1,5)が主であるが、「教師」という呼称も多少出て来る。パウロ自身がすでに、第一コリントス12:28で、「教師」という語を教会内の一定の指導者を指す意味で用いている。
第一に「使徒」、第二に「預言者」、そして第三に「教師」「教え手」(NWT)と並べているのだから、教会内でかなりの立場として認められていたことが伺える。パウロ後では、使徒13:1でも「預言者と教師」を教会の指導者として並べており、エフェソス4:11でも同様に、「教師」を特別の地位にある重要な役割を持つ者として列挙されている。
ヤコブ書の著者がパウロ系キリスト教用語を多用して、批判を展開していることを考慮するならば、その対象となっているのは、キリスト教の一般信者というよりも、パウロ系キリスト教の「教師」たちであると考えるのは自然なことであろう。
つまり、パウロ系書簡は、教師たちの一般信者に対する上位下達形式の説教となっているが、ヤコブ書は教師たちに対する批判として、キリスト信者のあるべき姿を説いている。それを「パウロの訓戒と調和している」とするのは、いかにも乱暴な解説である。
WTは、ヤコブ4:5の「わたしたちの内に宿っている霊」つまり、「そねみの傾向をもって絶えず慕う」よう動かす力を、「不完全な人間に宿る霊」と解させようとしている。しかし、それでは、WTドグマに反する解説になるのではなかろうか。
WTによれば、ヤコブ書は、「各地に散っている十二部族へ」宛てられた手紙であり、その「十二部族」とは、生来のイスラエル人ではなく、「霊的イスラエル人」つまり「聖霊を注がれている者たち」に宛てた手紙である、と解釈している。そのキリスト信者の「内に宿っている霊」とは、「神の聖霊」でなければならない。しかし、その「神の聖霊」は、油注がれた者たちを「それみの傾向に導くように絶えず働きかける」ものとなるというのである。
果たして、人間をそねみの傾向に向かわせる「霊」が、神から注がれることがあるのだろうか。3:13-18によれば、「妬みや闘争心のあるところ」へ向かわせようとする力は、「上から」のものではなく、「地的、動物的、悪霊的なもの」である、とNWTは述べている。
確かに、JWの中で、「自らの内に宿っている霊」を持つと主張なさる、「聖霊によって」任命された方々や、統治体で指導の任に当たっておられる方々は、「わたしたちの内に宿っている霊は、そねみの傾向をもって絶えず慕う」と聖句が述べていることに同意されることでしょう。
彼らに注がれているとする「霊」が「聖霊」なのか「悪霊」なのか、見分けることも「信仰」によるのでしょうから、どちらとご判断なさるかは、どうぞご自由に。