多くが「教える者」となるべきではない、本当の理由とは?(ヤコブ31-2より)

ほとんどすべてのJWがその理由を、「教える者たち」は会衆の成員たちを霊的に守るための重要な責任が委ねられており、神のご意思と聖書の指示と異なる世話をしてしまうなら、「より重い裁き」を受けることになるから、であると答えるだろう。

WTもその特別な立場と責任を認め、「教える者」としての仕事の重要性を次のように認めている。

*** 塔95 9/15 30ページ 読者からの質問 ***

弟子ヤコブは,「わたしの兄弟たち,あなた方の多くが教える者となるべきではありません。わたしたちがより重い裁きを受けることをあなた方は知っているからです」と言いましたが,ここでヤコブが言わんとしているのはどういうことですか。―ヤコブ 3:1。

ヤコブはクリスチャンに,他の人に真理を教えることをやめさせようとしていたのではありません。イエスはマタイ 28章19,20節で弟子たちに,「すべての国の人々を弟子とし,……わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい」とお命じになりました。ですから,クリスチャンは皆,教える者であるはずです。使徒パウロは,ヘブライ人のクリスチャンがまだ教える者となっていなかったため,彼らに助言を与えました。こう書いています。「あなた方は,時間の点から見れば教える者となっているべきなのに,神の神聖な宣言の基礎的な事柄を,もう一度だれかに初めから教えてもらうことが必要です」― ヘブライ 5:12。

では,ヤコブは何について語っていたのでしょうか。ヤコブは,会衆内で教える特権を与えられている人たちに言及していたのです。エフェソス 4章11節には,「彼[会衆の頭,イエス・キリスト]は,ある者を使徒,ある者を預言者,ある者を福音宣明者,ある者を牧者また教える者として与えました」とあります。1世紀の諸会衆には,人々を教える様々な特別の立場がありました。それは今日でも同じです。例えば,統治体は「忠実で思慮深い奴隷」を代表しており,世界の会衆を教えることにおいて監督という特別の責任をゆだねられています。(マタイ 24:45)旅行する監督や会衆の長老たちも,人々を教える特別の責任を与えられています。

ヤコブは,資格あるクリスチャンの男子に,神からのより重い裁きを受けるといけないので,教える者としての役割を引き受けるべきではない,と言っていたのでしょうか。そうではありません。長老の職に就くということは大きな特権です。そのことはテモテ第一 3章1節の言葉から分かります。「監督の職をとらえようと努めている人がいるなら,その人はりっぱな仕事を望んでいるのです」と述べられています。会衆の長老として任命されるための必要条件の一つは,その人が『教える資格を備えている』ということです。(テモテ第一 3:2)ヤコブは,霊感を受けたパウロの言葉に矛盾することを述べたのではありません。

しかし,西暦1世紀には,資格もなく任命されてもいないのに教える者として振る舞う人たちがいたようです。そのような人たちは恐らく,そういう役を幾らか顕著なものと考え,自分個人が栄光を受けることを望んだのでしょう。(マルコ 12:38‐40; テモテ第一 5:17と比較してください。)使徒ヨハネは,デオトレフェスという人のことを述べています。この人は『第一の地位を占めたがって,ヨハネからは何事も敬意をもって受け入れませんでした』。(ヨハネ第三 9)テモテへの第一の手紙 1章7節には,「律法の教師でありたいと願いながら,自分の言っていることも,自分が強く言い張っていることについても,その意味を悟らない」ある人たちのことが述べられています。ヤコブ 3章1節の言葉は特に,教える者になることを願いながら間違った動機を抱いている男子に当てはまります。そのような人たちは会衆に多大の害をもたらしかねず,それゆえに,より重い裁きを受けることになります。―ローマ 2:17‐21; 14:12。

ヤコブ 3章1節はまた,実際に資格があり,教える者として仕えている人たちの注意を喚起する聖句でもあります。彼らには多くのことが託されているのですから,多くのことが要求されます。(ルカ 12:48)「人が語るすべての無益なことば,それについて人は裁きの日に言い開きをすることになります」と,イエスは言われました。(マタイ 12:36)これは特に,話す言葉に特別な影響力のある人たち,つまり任命された長老たちについて言えることです。

長老たちは,エホバの羊をどのように扱ったかについて言い開きをすることになります。(ヘブライ 13:17)長老たちが言うことは命に影響します。ですから,長老は自分独自の意見を吹聴したり,パリサイ人がしたように羊を虐待したりしないよう気をつけるべきです。そして,イエスが示したのと同じ深い愛を表わすよう努力しなければなりません。長老は,教える際にはどんな状況においても,審理問題を扱っている時には特に,いい加減なことを言ったり,全く個人的な考えを述べたりせず,言葉を吟味すべきです。専らエホバとみ言葉と神の組織からの指示に頼るようにすれば,牧者は神からの豊かな祝福を受けることができ,「より重い裁き」を受けることはないでしょう。

 

NWTに限らず、ほぼすべての聖書で、ヤコブ3:1の「教える者」に関して、「教会の教師(聖職者)は少人数であるべきであり、大勢の者が教師になるべきではない」と言っていると解されている。

 

しかし、原文には「聖職者は選ばれた少数のものでなければならない」ということは、どこにも言われていないようである。

 

ヤコブ書の著者は、本当は何を言いたかったのだろうか。

 

1我が兄弟たちよ、多くの教師になるな。いずれ我々はより大きい裁きを受けることになる、とあなた方は知っているのだから。2すなわち我々は誰もが多く過つものである。もしも誰かがロゴスにおいて過つことがないとしたら、その者は完全な者であって、身体全体も轡によってさばくことのできる者である。(田川訳)

 

1わたしの兄弟たち、あなた方の多くが教える者となるべきではありません。わたしたちがより重い裁きを受けることをあなた方は知っているからです。2わたしたちはみな何度もつまずくのです。言葉の点でつまずかない人がいれば、それは完全な人であり、全身を御することができます。(NWT)

 

原文のギリシャ語をKIから

me polloi didaskaloi ginesthe adelphoi mou eidotes hoti meizon krima lepsometha

=not many teachers be-you-coming brothers of-me having-known that greater judgment we-shall-receiveと字義訳している。

 

最初の文の直訳は「多くの教師になるな、兄弟たちよ」、である。

主語は、二人称複数の動詞形(ginesthe)であるから、「あなた方」である。

「多くの」(polloi)という形容詞を田川訳は「教師」にかけているが、NWTは「なるべきではありません」という動詞にかかる形容語として訳している。

「多くの」という形容詞のかかり方について解釈が分かれている。多くの翻訳は、「多い」を主語の「あなた方」と同格の付加語と解し、「あなた方多くの者が教師になるな」と読ませたり、「多い」を述語とみなし、「あなた方」と「教師」を同格の付加語と解し、「あなた方教師は大勢になるな」と読ませている。

口語訳「わたしの兄弟たちよ。あなた方のうちの多くの者は、教師にならないがよい」。

新共同訳「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません」。

塚本訳「兄弟方、おおぜいが教師におなりでないように」。

 

しかし、語の位置からすると「多くの」は「教師」にかかる形容詞であるから、「多くの教師」という意味である。二人称複数の動詞形であるから、主語は「あなた方」である。「多くの教師」が動詞の主語となるとすれば、動詞が無くなることになり、文として成立しない。動詞の主語が「あなた方」である以上、「多くの教師」は述語の補語であり、「あなた方は多くの教師になるな」という意味にしかならない。

 

つまり、著者が言いたいのは、あなた方は寄ってたかって教師なんぞになりたがるな、という意味であり、教師になる人間が多くなってはならない、という意味ではない。「教師」の存在を前提にしている表現ではなく、あなた方が「教師となる」こと自体を否定している表現である。

 

このことは文章の流れからしても明らかである。1節前半の「教師になるな」という文の理由として、1節後半で「我々はいずれもっと重い裁きを受けるのだから」と言っている。さらに2節で、「我々は誰もが間違いを犯す」と付け加えている。それなら、論理の流れとして、我々人間は誰でも間違いを犯すのであるが、教師たちの過ちはいずれ「神のより大きな裁き」を受けることになるということになる。

 

もしこの文が、「教会の教える者は少人数であるのが正しいのです」という趣旨の文であるとしたら、あなた方も我々も同じように過ちを犯す存在であるが、「より重い裁きを受ける者」である「我々」だけが「教える者」となるべきである。 

なぜなら、あなた方は我々と同じように同じように過ちを犯すが、「教える者」ではないあなた方は、我々より「より軽い裁き」ですむのであるから、と言っていることになる。

 

論理的に言って、「より重い裁き」を受ける方が、より重い過ちを犯していることになるはずである。それなのに、あなた方より、より重い過ちをし、より重い裁きを受ける人間を自分たちの教師として、彼らのより重い過ちに従うのが正しいことなのだ、ということになってしまう。

 

むしろこの文は、我々人間は誰しも必ず間違いを犯すのであり、その過ちはいずれ「神のより大きな裁き」によって訂正されることになるのであるから、誰であろうと自分が真理の基準であるかのような顔をして、我こそ聖なる教師である、などとしゃしゃり出て、他の人々に対する権威者として振舞ってはならない、という意味に解釈した方が素直であると思われる。

 

そして、この個所も、主としてパウロ系諸教会の教職制度に対する批判であろう。パウロは、フィリピ1:1で、信者の全体を「聖者たち」と呼んでいるが、それと区別して「司教たちと奉仕者たち」を別扱いにしている。教職者と一般信者を区別して、一般信者は何もわからないのだから、おとなしく教職者の教えに従っていなさい、と考えていたことは明らかである。

 

パウロの教会制度に関する基本姿勢は、信者にとっては自分パウロこそが絶対的な権威者であると認めろ、というものであり、コリント教会にもうるさく言い立てている。(コリ①4:15ほか多数)パウロ後のパウロ系教会においてはその権威主義を継承し、組織として教会教職制度が確立していったのも当然のことであろう。

 

三つの牧会書簡は、まさしく、パウロ派教会の「教師」の心得を説いたものである。他の疑似パウロ書簡も同様であり、パウロ系の教会ではどの教会でも、我こそがパウロ大先生の権威を受け継ぐ「教師」なのです、と威張りくさっていたのであろう。(ペテ①5:5参照)

 

ヤコブ書の著者は、そのようなパウロ系教会を念頭に、そもそも人間は互いに対等な存在なのだから、「教師」と「教師」の教えにおとなしく従うべき大多数の「平信徒」という差別立てをするのはよろしくない、と言いたかったのだろう。

 

この点においても、ヤコブ書の著者は、イエスの言葉を自分の基本姿勢に据えている。「あなた方自身はラビ(=教師)と呼ばれてはならない。あなた方の教師は一人しかいないからだ。……また導く者と呼ばれてもならない。あなた方の導き手は唯一キリストのみである」(マタイ23:8-10)

マタイの文そのものは、イエス自身の言葉ではあり得ず、マタイの教条である。イエス自身が自分のことを「キリスト」というはずがないからである。おそらくマタイは「あなた方は教師になるな」という趣旨のイエスの自身の発言をキリスト教化させ、整えたのであろう。

 

ヤコブ3:1のこの個所を「聖職者は選ばれた少数者でなければならない」という趣旨に訳している訳は、すべて自分たちの教会組織の支配体制を維持しようとするための改竄である。原文には、聖職者の存在を前提にして、少数で維持すべきとは書いていない。むしろ、聖職者なんぞになるな、という趣旨の文である。

 

WTも含め、「より大きい裁き」を「最後の審判」の意味に解説する者が多いが、単に様々な裁判のうちの「より大きい裁き」を意味するだけである。実際、新約の他の個所における「より大きい裁き」という表現は必ずしも「最後の審判」を意味するものではない。

 

例えば、マルコ1240=ルカ2047で、言い気になって威張りくさり、やもめの家々を食いものにしている律法学者は「より大きい裁きを受けるであろう」とある。これは最後の審判もf含むかもしれないが、基本は「いずれは神にもっと大きな裁きが与えれられる」という意味の文である。

「裁き」(krima、あるいは同根のkrisis)という意味の原義は、「判断」という意味が強い。krimaの方がより「判断」の意味が強いが、「是非善悪に関して正確な判断をすること」という意味であり、そこから派生して裁判の「判決」という意味になった。その場合でも「正確な判断」という意味が消えているわけではない。

 

問題は、何と比べて「より大きい」のか、ということである。しかし、著者は、比較の対象を明示していない。それで、多くの解説書は、これは「あなた方」と「我々」との比較だ、と説明する。つまり、「我々はあなた方よりも大きい裁きを受ける」という意味に解している。しかし、この文は、接続詞hotiで繋がれており、前の文「あなた方は教師になるな」ということの理由を述べている文である。そして、我々はだれもが多く過つものである、ことを認めている。

 

「より大きい裁き」が「我々」と「あなた方」との比較におけるものであるとするならば、「あなた方は教師になるな」と言っておきながら、その理由を、なぜなら「あなた方と違って我々はあなた方より大きい裁きを受ける」からである、と言っていることになる。

 

「我々はだれもが過つ」存在であることを認めているのだから、「我々」と「あなた方」が同じ立場の「キリスト信者」全体を指しているとするならば、この論理は矛盾する。「より大きい裁き」を受ける者の方が、つまり「より罪の重い者」の方が、「より小さい裁き」を受けるはずの「罪の軽い者」を教えなさい、と言っていることになるからである。これでは、「善人」は「悪人」に教わり、より「悪人」になれ、と言っているようなものである。

 

これを矛盾と感じないのは、「我々」を「我々教師たち」という意味に読み込み、「あなた方」を一般の「平信徒」と読むからである。それなら、「我々教師たちはあなた方平信徒なんぞよりもっと大きな裁きを受けることになるのであるから、あなた方平信徒が教師になるのはやめた方が良い」という意味に解することができる。

 

「我々」はお偉い指導者様であるのだから、その分だけ最後の審判の際には、より厳しい裁きに合格しないといけなくなるのです。「あなた方」平信徒たちが間違った解釈をして、神の救いを得られないということがないように、指導する責任と裁きに関する厳しい覚悟があるのです。それほど、「我々」=「指導者」は、重要な存在であるのだから、「あなた方」=「平信徒」は黙って、「我々」=「指導者」に従っていれば良いのだ、と読むことになる。

 

しかし、この「我々」と「あなた方」を「別の立場のキリスト信者グループ」と解すると解釈は、原文の意味を改竄した、独りよがりの読み込みである。

 

第一に、著者は、「多くの教師になるな」と呼びかけているのは「我が兄弟たち」に対してである。そして、「あなた方」はそのことを知っているのだから、と述べている。つまり、この「あなた方」とは、「我が兄弟たち」のことであり、「指導者のキリスト信者」に限定して呼びかけているのではなく、「すべてのキリスト信者」に対して著者は「多くの教師になるな」と呼びかけているのである。

 

さらに、2節で「我々はだれもが多く過つ」とあるが、この「我々」とは、1節の「我が兄弟」と「あなた方」を受けているのであるから、当然「すべてのキリスト信者」を指していることになる。つまりこの文は、我々人間たちはいずれ神からもっと大きな裁きを受けることになるのであるから、人間である教会の教師が知ったような顔をして、自分たちが勝手に決めた「判断」(裁き)を信者に押し付けたりしてはいけない、と言っているだけの文である。

 

あなた方欠点の多い教師どもがおっしゃる「判断」(裁き)よりも神の「判断」(裁き)の方がもっと大きな、決定的なものなのである、と著者は言っているのであろう。「より大きな裁き」とは、「指導者」と「平信徒」が受ける裁きを比較したものではなく、キリスト信者としてのどんな立場であれ「人間の下す裁き」と「神が下す裁き」を比較して、神の下す「裁き」の方が「より大きい」と言っているのである。

 

さらに、もし1節の「我々」が「指導者」を指しているのであれば、2節の「我々」も「指導者」を指すものでなければならない。しかし、それでは、「我々教師の方が過つことの方が多いのであるから、教師になることができるのであるが、あなた方の方はそれほど多く過つわけではないのだから、教師になってはいけないよ」という文になってしまう。これでは、教師は出来が悪いのだから教師になれるが、出来の良い平信徒は教師になってはいけないよ、と教えていることになってしまう。

 

この文はもっと素直に、「我々人間は誰しも容易に過ちを犯す者であるのから、そういう人間が他の人たちと区別して、お偉い聖職者になんぞになりあがり、自分たち聖なる教師様だけの教えだけが絶対に正しいのだ、などと言ってはいけない、と言っている文である。

 

要するにこの著者が言いたいことは、神様の大きな判断の前にあっては、人間は皆平等なのだ、ということだけである。

 

もしも神信仰に意味があるとすれば、まさにこの著者のように、神様の前では人間はみんな平等であるということを徹底する姿勢を持つ、神を信じることがそのきっかけになる、という点にあるのだろう。

 

キリスト教会の活動の世話人としての牧師や司祭が存在するのは必要なことであると思うが、世話人はあくまでも世話人であり、他の信者たちと同等、対等な存在であるべきである。キリスト教に限らず、組織において秩序を保つためにヒエラルキーは必要であるが、人間としてはいかなる人間もすべての人間が互いに対して対等、平等の存在である、ことをすべての人間が認めるべきであろう。ヒエラルキーの優劣を人間としての価値との優劣と決して混同してはならず、投影してもならないと思う。

 

NWT「わたしの兄弟たち、あなた方の多くが教える者となるべきではありません。私たちがより重い裁きを受けることをあなた方は知っているからです」。

原文の主語は「あなた方」であるが、原文では形容詞である「多くの」を主語として、「あなた方の多くが」としている。「あなた方の」は、原文にはない付加。この語を入れることにより、「わたしの兄弟たち」=「あなた方」であるというイメージを残しながら、次の「私たち」とは、「あなた方の」中の「私たち」(教える者)であると読むことになり、「あなた方のうちの多くの者が教える者となるべきではない」と解することになる。それで、無意識のうちに組織の構図を描き、次の「あなた方」とは「私たち」とは別の「あなた方」(教えられる者)と読むことになる。さらに2節の「わたしたち」とは、「ロゴス」を単なる発する「言葉」と読むことにより、「あなた方」(教えられる者)を含めた「わたしたち」(すべてのキリスト信者)という意味に読むことになる。

 

いみじくも、WTは、牧者が「より重い裁き」を受けないためには、エホバとみ言葉だけでなく、神の組織からの指示に頼ることが重要だと教えている。果たして、み言葉は、「より重い裁き」を受けるのは、どんな人たちだと言っているのだろうか。