マルコ4:1-20 <種まく者の譬、譬話論、解説> 並行マタイ13:1-23、ルカ8:4-15

 

マルコ4 <種まく者の譬>

そして再び海辺で教えはじめたそして彼のもとに非常に多くの群衆が集って来る。そこで舟に乗り、海の中に座り、そして群衆はみな海に向かって陸に居た。そして彼らを譬話でいろいろと教えるのであった。そしてその教えの中で彼らに言った、「聞くがよい。見よ種まく者が蒔くために出て来た。そして蒔いている時に、あるものが道に落ちるということがあったそして鳥が来て食べてしまった。そしてほかのものはあまり土のない石地に落ちた。そしてすぐに、土が深くないので、芽が出た。そして太陽が出ると、焼けて、根がないので枯れた。そしてほかのものはの中に落ちた。そして茨が伸び、窒息させ、実を結ぶことがなかった。そしてほかの多くのものは良い地に落ちた。そして伸び、成長して、実を結び、三十倍、六十倍、百倍もなった」。そして言った、「聞く耳を持つ者は聞くがよい」。

 

<いわゆる譬話論>

10そして自分たちだけになった時十二人と一緒に彼のまわりに居た人たちがえのことをたずねた11そして彼らに言った、「あなた方には神の国の秘儀が与えられているが、かの外の者たち対しては、一切が譬えでなされる。12彼らが眺めることは眺めるが見ず、聞くことは聞くが理解しないため、また彼らがたちもどって来て赦されることがないためである」。

 

<種まく者の譬の解説>

13そして彼らに言う、「あなた方はこの譬えを理解しないのかそれでどうしてすべての譬えを知ることができよう。14蒔く者は、言葉を蒔くのである。15道のところの者とは次の者たちである。言葉がその者たちのところに蒔かれ、聞くのであるが、すぐにサタンが来て、彼らの中に蒔かれた言葉を奪う。16そして、石地に蒔かれる者とは次の者たちである。言葉を聞き、すぐに喜んで受け入れるが、17自分の中に根を持たず、一時的あるので、言葉の故に患難か迫害が生じると、すぐに躓く。18して、茨の中に蒔かれる他の者とは、次のような者たちである。言葉を聞くが、19世間的な気遣いやら、富の惑わしやら、その他のことについての欲望やらが入ってきて、言葉を窒息させ、実を結ぶことがない。20そして良い地に蒔かれた者とは、次のような者たちである。言葉を聞き、受け入れ、三十倍、六十倍、百倍に実を結ぶのである」。

 

 

マタイ13 <種まく者の譬>

1その日にイエスは家から出て来て、海辺に座った。2そして彼のもとに多くの群衆が集まって来たので、彼は舟に乗って座り群衆はみな波打ち際に立った3そして彼らに譬えで多くのことを語って、言った、「見よ、種まく者が蒔くために出て来た。4そして彼が蒔いている時に、いくつかの種は道のところに落ち、鳥が来て食べてしまった。5ほかのいくつかはあまり土のない石地に落ちた。そして、土が深くないので、直ちに芽が出た。6だが太陽が出ると、焼けて、根がないので枯れた。7ほかのいくつかは茨の上に落ちた。そして茨が伸びて、ふさいだ。8しかしほかのいくつかは良い地に落ちた。そして実を結び、あるものは百個の、あるものは六十個の、あるものは三十個の実になった9耳ある者は聞くべし」。

 

<いわゆる譬話論>

10そして弟子たちが進み出て、彼に言った、「何故彼らには譬えでお話になるのですか」。11彼は答えて彼らに言った、「あなた方には天の国の秘義を知ることが与えられているからだ。かの者たちには与えられない。12持っている者には、与えられて、ますます多くなり、持っていない者からは、その持っているものも取り去られる、ということだ13この故に私は彼らに譬えで語る。彼らは眺めるけれども眺めず、聞くけれども聞かず、理解しないのである。14彼らに対しては次のように言っているイザヤの預言が成就するあなた方は聞くには聞くが理解せず、眺めるには眺めるが見ない。15この民の心はぶよぶよ太り、耳では重くしか聞かず、自分の眼をふさいだのだ。それは彼らが眼で見ることがなく、耳で聞くことがなく、心で理解しないため、彼らがたちもどって来て私が彼らを癒したりすることがないためである、と。

16あなた方の眼は見ているから幸いである。耳は聞いているから幸いである17何故なら、アメーン、あなた方に言う多くの預言者や義人が今あなた方が見ていることを見たいと欲したが、見れず、あなた方が聞いていることを聞きたいと欲したが、聞けなかったのだ。

 

<種まく者の譬の解説>

18そこであなた方は、種まく者の譬えを聞くがよい。19御国の言葉を聞いて理解しない者は誰でも、悪者が来て、その者の心に蒔かれたものを奪い取る。道のところに蒔かれた者とは、こういう者のことである。20石地に蒔かれた者とは、言葉を聞き、すぐに喜んで受け入れる者のことである。21しかし自分の中に根を持たず、一時的であるので、言葉の故に患難か迫害が生じると、すぐに躓く。22茨の中に蒔かれた者とは、言葉を聞く者であるが、世間的な気遣いやら、富の惑わしやらが言葉を窒息させ、実を結ぶことがない。

23良い地に蒔かれた者とは、言葉を聞き、理解する者のことである。その者は実を結ぶ。あるものは百個の、あるものは六十個の、あるものは三十個の実を結ぶ」

 

 

ルカ8 <種まく者の譬>

多くの群衆が集って来た。また町ごとに彼のもとに人が出て来た。それで譬話で語った、「種まく者が自分の種を蒔くために出て来た。そして蒔いている時に、あるものは道のところに落ちて、踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかのものは岩の上に落ち、生えたが、水気がないので枯れた。ほかのものは茨の真ん中に落ちた。そして茨も一緒に生えて、ふさいだ。そしてほかのもの善い地に落ち、生えて、百倍にも実を結んだ」。こう言って彼は声をあげた、「聞く耳ある者は聞くべし」。

 

<いわゆる譬話論と種まく者の解説>

彼の弟子たちが、これはどういう譬えであるかと彼にたずねた。10彼は言った、「あなた方には神の国の秘儀を知ることが与えられているが、ほかの者たちには譬えで与えられる。彼らが眺めるけれども眺めず聞くけれども理解しないためである。

11この譬えはこういうものである。すなわち種とは神の言葉である。12道のところの者とは、聞くけれども、その後悪魔がやって来て、その者たちの心から御言葉を奪い、その者たちは信じて救われることがない。13石地の上の者とは、聞くと喜んで御言葉を受け入れるのであるが、根を持たず、一時的信じるだけで、試練の時には落伍する14茨の中に落ちたものとは、聞くけれども、気遣いやら、富やら、生活の楽しみやらによって、歩んでいる途中で窒息し、最後まで実を結ぶことをしない者のことである。15良い地の中のものとは、良くかつ善なる心で御言葉を聞き、それを保って忍耐をもって実を結ぶ者のことである。

 

参ルカ10

23そして、自分たちだけの間で弟子たちの方をふり向いて言った、「あなた方が見ていることを見る眼は幸いである。24故なら、あなた方に言う、多くの預言者やが今あなた方が見ていることを見たいと欲したが、見れず、あなた方が聞いていることを聞きたいと欲したが、聞けなかったのだ」。

 

 

 

マルコ4:1-34までは、五つの譬を中心とした譬話集となっている。

最初の「種まく者の譬」「いわゆる譬話論」「種まく者の譬の解説」は、三つで一つの話に構成されている。

 

最初の「種まく者の譬」と最後の「種まく者の解説」は、元来一つの伝承だったのであろう。

間に置かれている「いわゆる譬話集」は、マルコが「種まく者の譬」とは無関係の別伝承をこの個所に組み込んだものと思われる。

 

この一続きの「種まく者の譬話」は、マルコがキリスト教徒の間でイエスの教えがどのように保持され、展開されるべきかを示そうとしたものである。

 

「種まく者の譬話」に続いて、「燈火と測り」「大地がおのずと実を結ぶ」「からし粒の譬」が続き、「譬話集の結び」で、マルコにおける譬話集は終わる。

 

その後に、第二の奇跡物語集が収められている。

 

 

一連の「種まく者の譬話」は、前段の「イエスの家族とベエルゼブル論争」と同じ三層構造となっている。

 

「種まく者の譬」と「その解説」の間に「いわゆる譬話論」が挟まっている構成である。

1.イエスが「譬話をする」。

2.弟子たちは「その譬話を理解できないので、イエスが彼らの無理解さを叱る」。

3.イエスが「譬話の解説をする」という構図である。

 

「種まく者の譬」と「その解説」は、同じ一続きの伝承であり、間に置かれている「いわゆる譬話論」は、前後の「種まく者の譬」とはまったく無関係であり、元来は独立した伝承だったのであろう。

 

異なる二つの伝承を一つの伝承での場面であるかのように組み込むことによって、マルコはどちらの伝承も関連する意味を持っていることを訴えたかったのであろう。

 

マルコは、前段の「イエスの家族とベエルゼブル論争」伝承で、異なる伝承を意図的に三層構造にすることによって、弟子や親族と群衆とに関して、本当の意味でイエスの兄弟と呼べるのは誰であるかを示唆しようとしている。

 

ここでも、前段の「イエスの家族」批判及び「使徒」批判と同じく、マルコには、10十二人と一緒にイエスのまわりに居た」(hoi peri auton tois dOdeka tas prabokas)と主張する人たちに対する批判があるのであろう。

 

 

マタイの並行個所で特徴的なのは、「いわゆる譬話論」において、イザヤ書の預言成就とする旧約引用が付加されていることである。

 

マルコの三部構成に関しては、削ったり、書き変えたり、付加したりしているが、基本的にそのまま構造を踏襲している。

 

マタイは、イエスと弟子たちに関する出来事に関して、旧約の預言成就という体裁を付加することにより、十二人、もしくは十二人に連なる弟子たちの系譜を正統化しようとしているのであろう。

 

マルコの弟子批判を意図した伝承に、マルコの基本構造を変えずに、マタイが旧約預言の成就とする解釈を付加するという構成は、マルコの弟子批判伝承がマタイの旧約預言伝承よりも先に流布していたことの傍証でもあろう。

 

マタイにおけるイザヤ書解釈は、十二使徒権威を重視し、自派に属さないキリスト教徒に対する権威の優位性を正統化しようとしている独善的な意図が感じられる。

「使徒」権威の絶対化を前提とした客観的な根拠の乏しい牽強付会の旧約解釈に思える。

 

それはともかく、マルコもマタイも基本的には三部構造であるから、マタイの旧約預言伝承をマルコが削除し、わざわざ弟子批判伝承に読めるよう修正したとは考え難い。

 

むしろマルコの弟子批判が先に存在し、流布していたからこそ、マタイはマルコの一部を削り、一部を付加し、旧約預言の成就という権威付けを図ることにより、マルコの批判をかわそうとしたと考える方が合理的である。

 

 

ルカも、マルコのサンドイッチ型構造を基本的には受け継いでいるが、マルコが三部構成なのに対して、二部構成となっている。

 

ルカは、マルコの文を一部削る他は、マルコの表現を多少書き変えているだけにとどめている。

 

ただし、マルコでは「譬えの解説」の中で、弟子たちがイエスの譬を理解していなかったことを一貫して示しているが、マタイとルカでは、弟子たちが「譬えの解説」を与えられる特別な存在として描かれ、譬を理解できないのは、「弟子たち」ではなく、「かの者たち」(ekeinois)「外の者たち」(loypois)という設定に変えている。

 

 

 

まずは、導入句から。

イエスは集まって来た「群衆」に対して、「種まく者の譬」を語る。

 

マルコ4

そして再び海辺で教えはじめたそして彼のもとに非常に多くの群衆が集って来る。そこで舟に乗り、海の中に座り、そして群衆はみな海に向かって陸に居た。そして彼らを譬話でいろいろと教えるのであった。そしてその教えの中で彼らに言った、…

 

マタイ13

1その日にイエスは家から出て来て、海辺に座った。2そして彼のもとに多くの群衆が集まって来たので、彼は舟に乗って座り群衆はみな波打ち際に立った3そして彼らに譬えで多くのことを語って、言った、…

 

ルカ8

多くの群衆が集って来た。また町ごとに彼のもとに人が出て来た。それで譬話で語った、…

 

 

 

マルコは、「再び海辺で教えはじめた」と書き出しているが、マタイに「再び」(palin)という語はない。

 

マルコにおいて、「海辺」(=ガリラヤ湖畔)で群衆に教える」(2:13)とする記述や「譬を用いた」(3:23)とする記述はあるが、イエスが自分の語った譬の内容について具体的に言及するのは、ここが初めて。

 

舟に乗って、湖畔の群衆に教えるという構図は、3:9にも通じる

 

おそらく、マルコにとってはガリラヤ湖畔で群衆に教えるというイエスの姿が頭にあるので、「再び」という言葉を入れてしまったのだろう。

 

 

マタイは、イエスが「家」(tEs oikkas)から出て、海岸に座った、としている。

マタイは、4:13でイエスがカファルナウムに住んでいたとしている。

この定冠詞付き「家」(tEs oikkas)は、属格単数女性形。

イエスの自宅というのではなく、ガリラヤ湖畔にあるイエスが懇意にしていた特定の家を想定しているのだろう。

 

マタイはマルコの「非常に多くの群衆」(ochlos pleistos)という誇張した表現を、単に「多くの群衆」(ocholoi polloi)に修正している。

マルコの「群衆」贔屓、「使徒」批判の意識が強意の言葉を選ばせ、マタイの「群衆」軽視、「使徒」重視の姿勢が、原形に戻してくれたのだろう。

 

マタイは、マルコの「舟に乗り、海の中に座り」(embanta eis to ploion kathEsthai en tE thalassE)という表現を、「舟に乗って座り」(eis to ploion embanta kathEsthai)としている。

 

マルコの表現でも言いたいことは伝わる。

マタイとしては、「海の中に」座ることはできない、「座る」なら、「舟に」であろうと考え、修正してくれたのであろう。

 

マルコは「多くの群衆が集まってくる。そこで舟に乗り…」と、群衆を視点とした表現にしている。

マタイは「彼のもとに多くの群衆が集まって来たので、彼は…」と、イエスの視点を重視した表現に書き直してくれている。

マタイにとっては、イエスの伝記なのだから、イエスを中心にした視点で描くのは当然のことなのであろう。

 

また、マルコの「居た」(En)という動詞の未完了形を、マタイは「立った」(heistEkei)と過去完了形に修正してくれている。

 

マタイの根底に流れるマルコに対する否定感情が、マルコの稚拙な表現や文法上の細かな間違いを添削させてしまうのだろう。

 

 

ルカは、マルコの書き出しである「そして再び海辺で教えはじめた」を削除し、単に「多くの群衆が集ってきた」とした。

 

ルカとしては、前段(8:1‐3)に町や村ごとに福音宣教したことを置き、イエスと一緒にまわりに居た女たちに関する記述を続けている。

話のつながりを考慮して、マルコにおける「海辺」の設定から、「町」の場面に変えたのであろう。

 

マルコの「非常に多くの群衆」(ochlos pleistos)という強意表現は、マタイと同じく、原級に戻して、「多くの群衆」(ocholou polou)と修正している。

 

ルカは、マルコの「教える」(didaske)という語を避け、「語る」(eipen)という語に変えている。

「群衆」蔑視のルカとしては、イエスの教えを受ける対象は「弟子たち」だけであり、「群衆」に対してイエスが「教える」という構図を描きたくなかったのだろう。

 

マタイも、マルコの「教える」(disaske)という語を、「語って、言った」(elalEsen,lEgOn)に変えている。

 

ルカは、マルコの「群衆」という言葉を避け、「町ごとに彼のもとに人が出て来た」と書き直している。

おそらく事実ではなく、前段から続く宣教先の町や村の「群衆」を「烏合の衆」に仕立てるために、ルカが演出した創作であろう。

 

 

この譬話の主題は、キリスト教徒の間でイエスの教えがどのように保持され、人々の間に展開されているかを示そうとしたものである。

 

つまり、この譬話における「教え」の対象はキリスト教徒であるから、キリスト教の常識的には、十二弟子たちが主体となって、イエスの教えが展開されるべきはずのものであろう。

 

しかし、導入句には、「十二人」(tois dOdeka:Mar)という語も、「弟子たち」(hoi mathEtai:Mat,Luk)という語も登場しない。

 

弟子批判を意図しているマルコだけではない。

弟子擁護を企図しているマタイとルカにおいても同様である。

 

 

イエスは、まず、「群衆」(ocholos)に対して、譬話を語る。

 

マルコ4

「聞くがよい。見よ、種まく者が蒔くために出て来た。そして蒔いている時に、あるものが道に落ちるということがあったそして鳥が来て食べてしまった。そしてほかのものはあまり土のない石地に落ちた。そしてすぐに、土が深くないので、芽が出た。そして太陽が出ると、焼けて、根がないので枯れた。そしてほかのものはの中に落ちた。そして茨が伸び、窒息させ、実を結ぶことがなかった。そしてほかの多くのものは良い地に落ちた。そして伸び、成長して、実を結び、三十倍、六十倍、百倍もなった」。そして言った、「聞く耳を持つ者は聞くがよい」。

 

マタイ13

3…「見よ、種まく者が蒔くために出て来た。4そして彼が蒔いている時に、いくつかの種は道のところに落ち、鳥が来て食べてしまった。5ほかのいくつかはあまり土のない石地に落ちた。そして、土が深くないので、直ちに芽が出た。6だが太陽が出ると、焼けて、根がないので枯れた。7ほかのいくつかは茨の上に落ちた。そして茨が伸びて、ふさいだ。8しかしほかのいくつかは良い地に落ちた。そして実を結び、あるものは百個の、あるものは六十個の、あるものは三十個の実になった9耳ある者は聞くべし」。

 

ルカ8

「種まく者が自分の種を蒔くために出て来た。そして蒔いている時に、あるものは道のところに落ちて、踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかのものは岩の上に落ち、生えたが、水気がないので枯れた。ほかのものは茨の真ん中に落ちた。そして茨も一緒に生えて、ふさいだ。そしてほかのもの善い地に落ち、生えて、百倍にも実を結んだ」。こう言って彼は声をあげた、「聞く耳ある者は聞くべし」。

 

 

マルコのサンドイッチ構造における「表のパン」に相当する「譬」は「群衆」(ocholos)に対して語られており、「聞く耳を持つ者は聞くがよい」(hOs echei Ota akouein akaoetO)と結ばれている。

 

マタイは、マルコの「聞く耳を持つ者は聞くがよい」という表現から「聞く」(akouein)という重複表現の動詞を削除し、「耳ある者は聞くべし」(hO echOn Ota akoietO)と修正してくれている。

 

ルカは、関係代名詞となっている冠詞の格が違うだけで基本的にマルコを踏襲し、「聞く耳ある者は聞くべし」(hO echOn Ota akouein akouetO)としている。

 

 

「多くの群衆」に対する「聞く耳を持つ者は聞くがよい」というイエスの言葉に対して、弟子たちは次のように反応する。

 

マルコ4

10そして自分たちだけになった時十二人と一緒に彼のまわりに居た人たちがえのことをたずねた11そして彼らに言った、「あなた方には神の国の秘儀が与えられているが、かの外の者たち対しては、一切が譬えでなされる。12彼らが眺めることは眺めるが見ず、聞くことは聞くが理解しないため、また彼らがたちもどって来て赦されることがないためである」。

 

マタイ13

10そして弟子たちが進み出て、彼に言った、「何故彼らには譬えでお話になるのですか」。11彼は答えて彼らに言った、「あなた方には天の国の秘義を知ることが与えられているからだ。かの者たちには与えられない。12持っている者には、与えられて、ますます多くなり、持っていない者からは、その持っているものも取り去られる、ということだ13この故に私は彼らに譬えで語る。彼らは眺めるけれども眺めず、聞くけれども聞かず、理解しないのである。14彼らに対しては次のように言っているイザヤの預言が成就するあなた方は聞くには聞くが理解せず、眺めるには眺めるが見ない。15この民の心はぶよぶよ太り、耳では重くしか聞かず、自分の眼をふさいだのだ。それは彼らが眼で見ることがなく、耳で聞くことがなく、心で理解しないため、彼らがたちもどって来て私が彼らを癒したりすることがないためである、と。

16あなた方の眼は見ているから幸いである。耳は聞いているから幸いである17何故なら、アメーン、あなた方に言う多くの預言者や義人が今あなた方が見ていることを見たいと欲したが、見れず、あなた方が聞いていることを聞きたいと欲したが、聞けなかったのだ。

 

ルカ8

彼の弟子たちが、これはどういう譬えであるかと彼にたずねた。10彼は言った、「あなた方には神の国の秘儀を知ることが与えられているが、ほかの者たちには譬えで与えられる。彼らが眺めるけれども眺めず聞くけれども理解しないためである。

 

 

 

繰り返すが、この譬話の主題は、キリスト教徒がイエスの教えをどのように保持しているか、ということを示すことにある。

それにもかかわらず、イエスは、「十二人」に対してではなく、「多くの群衆」に対して、譬話を「教える」。

 

マルコのイエスは、「多くの群衆」を排他的に扱うことはしない。

 

ところが、「聞く耳を持つ者は聞くがよい」と「多くの群衆」に語ったはずのイエスが、サンドイッチの「具」に当たる「譬話論」では、「十二人」と「イエスのまわりにいた人たち」(hoi peri auton)には、秘義が与えられているが、「かの外の者たち」(ekeinois de tois exO)に対しては、一切が譬でなされる、とマルコのイエスは語る。

 

イエスの「譬話」を理解できるのは、「十二人」を中心としており、「かの外の者」、つまり「群衆」はイエスの「譬話」を理解できない存在なのだ、と主張する。

 

 

マタイでは、マルコの論調がさらに強調され、その主張がイザヤの預言の成就だとする引用がイエスの言葉として付加されている。

 

 

ルカはマタイのように「いわゆる譬話論」を強調して展開するのではなく、「譬話」とそれを聞いた弟子たちの質問に、イエスが解説するという体裁の二部構成で一つの話にしている。

 

 

「いわゆる譬話論」では、イエスの譬話を理解できるのが、「十二人」と「一緒に彼(イエス)のまわりに居た人たち」だけであることを示そうとしている。

その主張に対して、「譬話の解説」で、イエスは次のように語る。

 

マルコ4

13そして彼らに言う、「あなた方はこの譬えを理解しないのかそれでどうしてすべての譬えを知ることができよう。14蒔く者は、言葉を蒔くのである。15道のところの者とは次の者たちである。言葉がその者たちのところに蒔かれ、聞くのであるが、すぐにサタンが来て、彼らの中に蒔かれた言葉を奪う。16そして、石地に蒔かれる者とは次の者たちである。言葉を聞き、すぐに喜んで受け入れるが、17自分の中に根を持たず、一時的あるので、言葉の故に患難か迫害が生じると、すぐに躓く。18して、茨の中に蒔かれる他の者とは、次のような者たちである。言葉を聞くが、19世間的な気遣いやら、富の惑わしやら、その他のことについての欲望やらが入ってきて、言葉を窒息させ、実を結ぶことがない。20そして良い地に蒔かれた者とは、次のような者たちである。言葉を聞き、受け入れ、三十倍、六十倍、百倍に実を結ぶのである」。

 

マタイ13

18そこであなた方は、種まく者の譬えを聞くがよい。19御国の言葉を聞いて理解しない者は誰でも、悪者が来て、その者の心に蒔かれたものを奪い取る。道のところに蒔かれた者とは、こういう者のことである。20石地に蒔かれた者とは、言葉を聞き、すぐに喜んで受け入れる者のことである。21しかし自分の中に根を持たず、一時的であるので、言葉の故に患難か迫害が生じると、すぐに躓く。22茨の中に蒔かれた者とは、言葉を聞く者であるが、世間的な気遣いやら、富の惑わしやらが言葉を窒息させ、実を結ぶことがない。

23良い地に蒔かれた者とは、言葉を聞き、理解する者のことである。その者は実を結ぶ。あるものは百個の、あるものは六十個の、あるものは三十個の実を結ぶ」

 

ルカ8

11この譬えはこういうものである。すなわち種とは神の言葉である。12道のところの者とは、聞くけれども、その後悪魔がやって来て、その者たちの心から御言葉を奪い、その者たちは信じて救われることがない。13石地の上の者とは、聞くと喜んで御言葉を受け入れるのであるが、根を持たず、一時的信じるだけで、試練の時には落伍する14茨の中に落ちたものとは、聞くけれども、気遣いやら、富やら、生活の楽しみやらによって、歩んでいる途中で窒息し、最後まで実を結ぶことをしない者のことである。15良い地の中のものとは、良くかつ善なる心で御言葉を聞き、それを保って忍耐をもって実を結ぶ者のことである。

 

 

マルコでは、イエスが譬えの解説をする前に、「あなた方はこの譬を理解しないのか。それでどうしてすべての譬を知ることができよう」と、「十二人と一緒に彼のまわりに居た人たち」を、厳しく、叱責する。

 

「譬の解説」では、「いわゆる譬話論」の主張に反して、「十二人」たちが、イエスの譬を理解できない存在として描かれている。

弟子たちがイエスの言葉を理解できないので、怒りのうちにイエスが弟子たちに解説を施すという構図となっている。

 

 

マタイとルカは、マルコの「十二人」に対する叱責の言葉を削除している。

その結果、イエスが弟子たちに対して、すぐに譬えの解説を施す構図になっている。

 

そのおかげで、マルコにおける十二人のイエスに対する無理解の態度は消滅し、イエスの譬の解説を特別に賜わる特権階級に変貌してしまっている

 

 

マタイは、「いわゆる譬話論」で、マルコの文にイザヤの預言成就として、15‐16を付加している

七十人訳イザヤ6:9,10の引用である。

 

マルコの「彼らが眺めることは眺めるが…」という句は、イザヤ6:9に由来する。

マルコのこの句がイザヤにあることを知ったマタイは、おそらく続く6:10の「この民の心はぶよぶよ太り…」という句も付加することにしたのだろう。

 

マタイがイザヤの預言成就としているこの個所は、イエスに関する出来事を旧約の預言成就とするいわゆる定型引用には数えられていない。

 

いわゆる定型引用には、七十人訳とは異なるギリシャ語が当てられている箇所が存在する。

ヘブライ語本文に立ち返って、ラビによる伝統的解釈を念頭に置いたアラム語を意識したギリシャ語を用いたり、ヘブライ語本文とは異なる表現を用いて、旧約の引用としている。

 

律法学者を背景に持つユダヤ人キリスト信者が、敢えて七十人訳とは異なる訳語のギリシャ語を選び、自分たちの主張に合う表現を恣意的に選び、旧約預言の成就として整えたものが定型引用である。

 

定型引用には、「預言者もしくは書物を通して言われたことが成就するためである」という趣旨の定型的導入文が付与されるのがお約束である。

 

つまり、定型引用は、個人的な聖書解釈による註解ではなく、旧約の文言に関する精緻な共同研究による総合的な判断によって、旧約の預言成就として整えられた文言で構成されたものである。

 

この個所をイザヤ預言としているマタイにおける文言は、七十人訳とぴったり一致している。

その理由は、この個所がいわゆる定型引用ではなく、マタイ個人による旧約引用だからであろう。

 

それに対し、マルコの引用は、イザヤ6:9,10を要約したもので、七十人訳ともヘブライ語本文とも微妙に表現が異なっている。

 

おそらく当時流布していた伝承をそのままの文言でマルコが収容したものであったと思われる。

 

内容からすれば、エルサレムの初期教団によって流布されたものだろう。

 

マタイは、マルコが採用した表現だけでは、旧約の預言成就とするには足りない、もしくはより強固に補強したいと思い、七十人訳を開き、イザヤの預言成就とし、イザヤ6:9,10をそっくり付加することにしたのだろう。

 

 

マタイの旧約引用が完全に七十人訳に依存しており、ヘブライ語本文に依拠していないという事実は、マタイの人物像に一つの示唆を与える。

 

マタイという名前はヘブライ語由来であるから、出自はユダヤ人であることは間違いないであろう。

 

しかし、マタイの母語はヘブライ語ではなく、ギリシャ語であったことを示すものだろう。

 

マタイに出て来る定型引用の十一個所は、あくまでもギリシャ語で伝承されていたものをそのまま写していたものと思われる。

 

マタイはユダヤ人を背景に持つギリシャ語人間であるから、ある程度のアラム語やヘブライ語を理解することはできたであろう

 

しかしながら、原典のヘブライ語本文を母語として自在に操れるほどの語学力は持ち合わせておらず、あくまでも第二言語に属する語学力だったと思われる。

 

 

 

とすれば、話は脱線するが、マタイは歴史上はじめて福音書をヘブライ語で書き記し、後にギリシャ語に翻訳されたとする説の信憑性は極めて薄いものとなる。

 

当時のキリスト教は正典を持っておらず、自らの正統性はユダヤ教正典に依拠せざるを得ない状況である。

 

正統性を必要としていたのは、ユダヤ教ではなくキリスト教である。

 

キリスト教がユダヤ教から正統に継承された宗教であることを証明したいと欲していたことは想像に難くない。

 

ユダヤ人キリスト教徒による旧約研究の体系である定型引用は、一神教の系譜がユダヤ教からキリスト教に正統に移行したことの証拠をヘブライ語本文から証明しようとする運動から産み出されたキリスト教神学であろう。

 

そこには、旧約律法学者であったラビの存在や律法主義運動の啓蒙活動家であったパリサイ派の影響が強く関係していたものと思われる。

 

「マタイ」として知られている福音書は、正統派キリスト教神学にぴったりの福音書だったのである。

 

マタイが当初、ヘブライ語で福音書を書いたとすれば、ますます、ユダヤ教からキリスト教への正統な系譜を担保できることになる。

 

ユダヤ人キリスト教信者において、マタイ人気が古代から高かったのも頷ける。

 

 

四福音書正典を初めて主張したのは二世紀後半のエイレナイオス(180年ごろ)の「異端論駁」であるが、初めから、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの順に固定されていたわけではない。

 

 

新約の正典化運動は、140年ごろマルキオンからは始まるが、福音書は「ルカ」だけで、ほかに当時パウロ文書とされていたパウロ書簡集だけによって構成されていた。

 

マルキオンは、144年にローマ教会、つまり当時の正統派教会によって破門されている。

 

当時、四福音書がローマ教会によって正典として認められており、マルキオンがその中からルカ書だけを選んだというわけではない。

 

マルキオンは、マタイやヨハネを全体として批判しており、「福音」と「福音書」はどちらも、euangelionであり、最初から「福音」は一つであるべきだと考えていた。

 

マルキオンの眼に適ったのがルカの「福音」だったのであり、「福音書」(euangelion)と「使徒書」(apostolikon)としてパウロ書簡のみを正典として採用したのである。

 

それでもそのまま採用したわけではない。

 

神を天と地の創造主とする信仰や旧約を重んじる姿勢を間違った信仰に汚染されているとし、信仰を純化させるため、もともとの福音書を復活させなければならないと考え、ルカ書やパウロ書簡に手を加えている。

 

二世紀前半当時、マルキオン派はローマ教会を中心とする正統派と並ぶ勢力であった

 

キリスト教を旧約信仰の完成形と位置付ける正統派教会が、マルキオン派を異端として排除しようとしたのはもっともである。

 

エイレナイオスは、マルキオン派を念頭に置き、「異端論駁」(III.11.8,9)の中で、「福音書の一部を認めない者」という表現で言及している。

 

正統派教会は、マルキオンの新約聖書運動によって、自らも正典化された新約文書を持たざるを得なくなったのである。

 

四福音書を一つのまとまりのある権威とみなすという発想は、マルキオン聖書に対して批判的に対決しようとしたエイレナイオスによって生まれたものである。

 

マルキオン以前に新約の正典化運動は確認されていない。

 

二世紀前半は、四福音書が四つとも同等に大多数の教会やキリスト教徒に権威ある書物して認められていたわけではない。

 

キリスト教が興ってから100年以上も、権威ある書物として持っていたのは、旧約しかなかったのである。

 

マタイは旧約によってイエスの出来事を説明しているので、正統派教会のキリスト教神学との親和性が強く、書かれた当初から人気が高かったことは確かである。

 

それに対し、マルコの福音書はもっとも古い福音書であるにもかかわらず、使徒を中心にキリスト教を展開しようとするキリスト教神学とは一線を画していた。

 

マタイとルカは、このあまり評判の良くない福音書を正統派教会にとって納得のいくように書き直したものである。

 

ルカは、序文(1:1-4)の中で「多くの者が手をつけた」と言って、先に存在する福音書に関して批判している。「手をつける」(epecheirEsan)という動詞は、あまりうまくできていない、という批判的な意味を持っており、実際にはマルコ福音書を批判している。

 

だから自分は、「厳密に、順序正しく」(akribOs,kratiste)書くのだ、と宣言しているのである。

 

 

「マタイがはじめヘブライ語で福音書を書いて、後にギリシャ語に翻訳されて広く、流布された」とする説は、エウセビオスの「教会史」(III・39・17)にあるパピアスの記述を根拠にしている。

 

しかしながら、その中に「マタイがヘブライ語で福音書を書いた」とも「後にギリシャ語に翻訳された」とも明確に書かれているわけではない。

 

「マッタイオス(マタイ)はヘブル語で託宣(ロギア)をまとめた。各人はその能力に応じてそれを解釈した。」(「教会史」秦剛平訳)

 

田川健三氏は、「マタイはヘブライ語で(イエスの)言葉を編集した。それをそれぞれが自分のできる仕方で解釈している」と訳出している。

 

「託宣」「言葉」(logoa)とは、「ヘブライ語で書かれた福音書」のことを意味しているのか。

それとも、ヘブライ語で書かれたイエスの言葉の資料、いわゆるQ資料を意味しているのか。

 

「各人はその能力に応じてそれを解釈した」「それをそれぞれが自分のできる仕方で解釈している」とは、どういう意味か。

 

「各人がそれぞれに解釈した」という意味か。それとも、「それぞれが解釈できる言語で翻訳された」という意味か。

 

いずれにしても、パピアスは「マタイ福音書が最初ヘブライ語で書かれ、後にギリシャ語に翻訳された」と記しているわけではない。

 

少なくてもエウセビオス(260?-339)の「教会史」が載せてある二世紀後半の「パピアスの証言」を根拠に、マタイ・ヘブライ語原本説やマタイ・福音書初刊説を証明することはできない。

 

 

パピアスの証言に関して確かなことは、福音書に関して、初めにマルコに関しては詳しく註解を述べているが、マタイに関しては批判的かつ否定的であり、補足的に言及しているにすぎないということである。

 

ルカやヨハネに関する言及はまったくない。

 

 

 

古い大文字写本の中は、アレクサンドリ型や西方型とも異なるマルコ福音書にしか存在しない、カイサリア型の写本が存在する。

 

アレキサンドリアからカイサリアに移住(231年)せざるを得なかったオリゲネスのマルコ福音書の引用とチェスター・ビューティ・パピルスの発見からして、パレスチナにおいては、三世紀前半でもまだ四福音書はそれぞれ別々の書物だったことは間違いない。

 

イエスに関する伝記・福音書は、カイサリア型写本の系譜からしても、少なくても二世紀後半までは、マルコが主流であったことは間違いないように思われる。

 

 

閑話休題。

 

 

マタイは、さらにマルコが採用した伝承の中から、「眺めることは眺めるが…」という表現から「眺める」(blepOsin<blepO)という語を鉤言葉として、「見ている」(blepousin<blepO)という言葉を含む、16‐17の別伝承も一緒に付加しようとしたのだろう。

 

マタイがマルコに付加している16-17あなた方の眼は見ているから幸いである…」という句は、一部異なる表現もあるが、ルカ10:23、24と並行。

 

つまり、Q資料由来の伝承。

 

ルカには、マタイの「耳は聞いているから幸いである」(kai ta Ota hymOn hoti akouei)という句はない。

 

また、マタイの「あなた方の眼は見ているから」(hymOn de makarioi hoi ophthalmoi hoti blepousin)という句から、「から」(de)という語が削除されて、「あなた方が見ていることを見る眼は幸いである」(makarioi hoi ophthalmoi hoi blepontes ha blepete)となっている。

 

つまり、マタイでは、「見る」と「聞く」が並べて置かれているが、ルカでは「聞く」の項が省かれている。

 

しかし、ルカでは、「見る」の次節に、マタイと共通する「聞く」に関する項が出て来る。

 

おそらく、Q資料にはマタイにあるように「見る」と「聞く」の項が並べて置かれていたのであろうが、ルカがその一部を削除したのであろう。

 

マタイの17節には「なぜなら、アメーン、あなた方に言う…」(amEn gar legO hymin)と「アメーン」が付いているが、並行のルカの24節には、「アメーン」は付いておらず、単に「なぜなら、あなた方に言う…」(legO gar hymin…)とあるだけ。

 

ユダヤ人のマタイは、アラム語の「アメーン」を残し、異邦人のルカは、削ったのだろう。

おそらく、Q資料には「アメーン」が付いていたものと思われる。

 

マタイの「多くの預言者や義人」(polloi prophEtai kai dikaioi)をルカは「多くの預言者や王」(polloi prophEtai kai basileis)としている。

 

マタイの「義人」(dikaios)の原義は、「正しい人」。

ユダヤ教的に「正しい」とは、旧約律法を遵守しているという趣旨になる。

「預言者」と「律法」を基準とした「義人」を並べるのは、ユダヤ教を背景に持つマタイらしい選択である。

 

「旧約」を背景に持たないルカとしては、「預言者」と対比するのであれば、「王」の方が相応しいと考えたのだろう。

 

異邦人のキリスト教信者であるルカとしては、旧約の「預言者」や「王」でさえも、見ることも聞くこともできなかった特権を、キリストの弟子たちは有しているのだ、という趣旨にしたかったものと思われる。

 

 

 

マルコにおける「譬」と「譬話論」の間には、矛盾が生じている。

「譬話論」と「譬の解説」との間にも矛盾が生じている。

 

「譬」そのものが示すイエスの精神と「譬の解説」が示すイエスの精神との間にも、矛盾が生じている。

 

本来なら、一つの話であるから、矛盾なく構成されるはずである。

 

それが、「譬」と「譬話論」における矛盾と「譬話論」と「譬の解説」における矛盾、「譬」と「譬の解説」における矛盾の三重構造で一つの話が構成されていることになる。

 

「譬」では、「群衆」に対して語られ、「群衆」に対して、「聞く耳の持つ者は聞くがよい」と「群衆」に対して「譬話」の理解が招待されている。

「十二人」に対して、「譬話」は語られてはいない。

 

それにもかかわらず、「譬話論」では、「神の国の秘義」を与えられているのは、「十二人」と「まわりに居た人たち」だけであり、「外の者たち」(=群衆)は、譬が理解できない存在として描かれている。

 

「聞く耳を持つ者は聞くがよい」と招待されたはずの「群衆」が、「譬話論」では、「聞くことは聞くが理解できない存在」へと変質させられている。

 

 

一方で、「いわゆる譬話論」では、「十二人」たちにだけに、「天の国の秘義」が与えられており、イエスの「譬」を理解できる唯一の存在として描かれているのに、「譬話の解説」では、「譬話」を理解しない存在として、イエスから叱責されているのである。

 

 

「譬話」では、「群衆」に対して「聞く耳を持つ者は聞くがよい」と語っていたのに、「譬話の解説」では、「群衆」にではなく、「弟子たち」に対して「譬話の解説」を施す。

「譬話の解説」に「群衆」は登場しない。

 

 

この三つの矛盾を解くカギとなるのが、前半と後半の二つの矛盾を繋いでいる、サンドイッチの「具」に相当する10-12の「譬話論」の役割を理解することにあるように思う。

 

「種まく者の譬」と「その解説」は本来一つの伝承だったのであろう。

「譬の解説」における導入句となっている13節の十二人批判はおそらくマルコによる付加であろう。

源伝承の「種まく者の譬話」は、8節の後に14節が続いていたものと思われる。

 

 

 

ここで、マルコの「種まく者の譬、譬話論、解説」の構造を整理しておく。

 

「種まく者の譬」の4:1,2はマルコの編集による導入句。

3-8は、イエス伝承。

9は、譬とは別伝承をマルコが付加したもの。

 

1-8は「非常に多くの群衆」が対象であり、9で「聞く耳を持つ者」に対象を広げている。

マルコのイエスは、話の聞き手をなるべく大勢に広げようとしていることが理解できる

 

それに対し、10-12の「いわゆる譬話論」伝承は、それとは逆にイエスの教えを秘義的に狭い範囲にとどめようとしている。

1-9の「群衆」ではなく、「十二人とイエスのまわりにいた人たち」に対象を限定している。

 

10-12のイエスは、「神の国の秘義を与えられている」者が対象で「外の者」たちは対象外であるという。

しかも、宗教的な「赦し」を与える権威の存在を前提にしたイエスの言葉である。

 

つまり、「いわゆる譬話論」伝承は、イエスによる伝承ではなく、「秘義的教え」を持つと主張している「弟子たち教団」による創作であると考えられる。

 

「十二人」だけでなく、「十二人と一緒にイエスのまわりにいた人たち」という言い方からすると、「十二人」という権威を継承していると主張している正統派を自認する「権威主義集団」が創作したものであると思われる。

 

この伝承を流布させたのは、「十二人」の「使徒集団」というよりも、実際には使徒の権威を継承しようとしたユダヤ人キリスト教信者を中心としたエルサレム教団によるものと思われる。

 

イエス伝承に関する解釈を独善的に独占し、異議を赦さないという権威主義は、「外の者たち」が「たちもどる」ことを「赦さない」という姿勢からも明らかである。

 

その集団をマルコは批判の対象としているのであろう。

 

「いわゆる譬話論」の内容は、「種に関する譬」とは無関係であり、イエスのロギアとして伝えられていた個別伝承であると思われる。

 

3-8の譬では「多くのもの」は「良い地」に落ち、何十倍にも、成長し、実を結んだ、という。

成長しなかった「ほかのもの」(原文の4,5,7の「もの」は単数形)はむしろわずかであり、「多くのもの」(原文の8は複数形)は「良い地」に落ち、成長したのである。

 

単数形の「種」と複数形の「種」との違いを強調するなら、駄目になった「種」(道に落ちた種、石地に落ちた種、茨の中に落ちた種)は、たまたま一粒づつ悪い地に落ちたのだが、他の多くの種は良い地に落ちて、多くの収穫をあげた、という趣旨になる。

 

 

「聞くがよい」という言葉から始まるイエスの言葉は、「聞く耳を持つ者は聞きなさい」という言葉で結ばれている。

 

「聞く耳を持つ」なら、誰でも、何十倍にも成長し、実を結ぶことができるというイエスの精神と11-12の「秘義」主義を擁護するイエスの精神とは真逆であり、明らかに対立する構図にある。

 

 

「譬話論」(11-12)における弟子たちには特別な「秘義」が与えられていると保証するイエスに対し、「譬の解説」(13-20)における13のイエスは、「彼ら」に対して「あなた方はこの譬を理解しないのか。それでどうしてすべての譬を知ることができようか」と厳しく弟子たちに詰め寄る。

 

「聞くことは聞くが理解しない」のは「外の者たち」ではなく、「十二人と一緒に彼のまわりに居た人たち」こそが、譬を理解できない存在として描かれているのである。

 

この13は、「譬話論」(10-12)と対立する関係にあり、「譬」(1-9)とも対立している。

むしろ13のイエスの言葉は、「譬話論」(11-12)に対する反論を開始するイエスの言葉となっており、「譬の解説」(15-20)における導入句の役割を果たしている。

 

この13は、14-20の「譬の解説」の元伝承に、おそらくマルコが付加させた編集句であると思われる。

 

別のイエス伝承としての「譬話論」11-12が「弟子教団」によって創作され、流布されていたものを、マルコがここに組み込み、13節の導入句として付加されたのであろう。

 

大きく三つの部分から成るこの譬とその解説の話は、イエスのロギアを分析すると、実際にはいくつかの伝承を組み合わせて、再構成されたものであることが理解できる。

 

 

 

この伝承の再構築でマルコは何を言おうとしているのだろうか。

 

イエスは「多くの群衆」(1-2)に「聞くがよい」(3)と呼びかける。

そして「聞く耳を持つ者は聞くがよい」(9)と結ぶ。

 

つまり、マルコのイエスは「理解させなくするため」(12)ではなく、「多くの群衆」に広く理解することを呼びかけるものである。

 

それにも関わらず、弟子たちは自分たちだけが「神の国の秘義」を与えられている特別な権威だと自負し(11)、「外の者」たちを排他的存在に仕立てている。(11-12)

 

しかし、当の弟子たちはイエスの明らかな言葉すら理解しない。(13)

 

弟子集団は、自分たちの権威主義を秘匿的に擁護する言葉を「イエスの言葉の伝承」として創作して、自分たちの権威付けに利用している。

 

それに対してイエスから見れば、「聞くことは聞くが理解しない」のは、彼らが排除している「外の者」ではなく、あなた達「弟子集団」ではないか…

 

「どの口が言う…」

 

マルコはそう言いたいのだろう。

 

 

 

マタイとルカにおける「種まく者の譬」と「いわゆる譬話論」との関係は、マルコとは異なった扱いとなっている。

 

マタイにおけるそれぞれの「種」はすべて複数形である。

つまり、かなりの分量の「種」がそれぞれの土の上に落ちた、という趣旨になる。

マルコの場合は、文字通りの「種」を「譬」にして、農業としての収穫の比喩として展開させている。

 

 

マルコのイエスは、「譬の解説」で、「蒔く者は言葉を蒔く」(ho speirOn ton logon sperirei)と説明している。

つまり、「種」とは「言葉」(ton logon)ということになる。

 

ルカはマルコに註解を加え、「種とは神の言葉である」(ho spporos estin ho logos tou theou)と、属格定冠詞付きで「神の」(tou theou)という語を付加している。

 

マルコの「言葉」は定冠詞付き「言葉」の絶対用法で、マルコの言う定冠詞付き「福音」と同義。

イエスの「言葉」が示すすべてのもの、イエスの生き方や精神を含めイエスに関する「福音」が示唆するすべてを指す表現である。

 

マタイは、マルコの定冠詞付き「言葉」「福音」という表現が気に入らない。

それで、The「言葉」を「御国の言葉」(ton logon tEs basileias)に変えている。

ルカも同様に、「神の言葉」(ho logos tou theou)に変えている。

その結果、それぞれの意図するところが微妙に異なって来ることになる。

 

 

マルコにおける「言葉」は、イエスの「福音」が示すすべてのものを意味し、人々の意識に「種」となり、行動や生き方に影響を与えるものとなることを示している。

 

定冠詞付き「言葉」=「福音」を蒔かれた者は、自分もまた「言葉」=「福音」を蒔く者となり、イエスの生き方を踏襲し、他の人にも影響力を与える者となるだろう。

「道のところ」や「石地」、「荊の中」に蒔かれた者も多少はいるかもしれない。

しかし、ほとんどの「言葉」は「聞かれ」、「受け入れられ」、多くの「実」を結ぶことになるだろう、と言っていることになる。

 

 

 

マタイは、マルコの「言葉」を「御国の言葉」、「神の国の秘義」を「天の国の秘義」と言い換えている。

 

マタイにとって、イエスの「福音」とは、「天国」に関する隠された「神の言葉」を指すものとなっている。

「天国」「神の国」に関する信仰が「秘義」を解き明かす鍵となると考えているのだろう。

 

マタイの場合は、信者の信仰生活を念頭に「種」を譬とし、信者の信仰が産み出す結果の比喩として「実」を展開させようとしている。

 

マタイの解釈は、マルコとは異なり、実際の農業とは無関係であり、信者を三つのグループに分け、それぞれの信仰生活に焦点を当てて、種まく者の譬を解釈している。

 

マルコは、全体として「三十倍、六十倍、百倍」になったとしているのに対し、マタイは個々の種が、ある種の信仰に属する信者グル-プは百倍、別の種の信仰に属する信者グループは六十倍、さらに別の種の信仰に属する信者グループは三十倍となった、言い換えている。

 

マルコの30.60,100という小さい方からの順番を、マタイは逆にして100,60,30と大きい方からの順番に並び変えている。

 

マルコとしては、量の大小はともかく、まずは収穫そのものを喜ぼうではないかと訴えたいのに対し、マタイは、多くの「実」を生み出した方がより多く祝福されるべきだと考えているのだろう

 

マタイは、個々の信者の能力の資質や信仰の差を念頭に置いているので、より優れている者がより神からの祝福や秘義を受けるべきであると考え、高い数字の方から順に並べ変えたのであろう。

 

 

 

それに対しルカは、実を結んだ「ほかのもの」を含め、すべての「種」を単数形にした。

マルコは、一つ、二つの種はよそに落ちて実を結ばないこともあるが、ほぼすべての種はちゃんと実を結ぶ、と言っているのに対し、ルカは、すべての「種」を単数形にしてしまった。

その結果、ルカは、実を結ぶ良い種は「一つ」しかないと言っていることになる。

 

ルカもマタイと同じく信者の信仰生活の念頭に置いている。

しかし、「種」をすべて単数形にすることにより、数ある「種」の中で、「善い」種は「一つ」だけであり、他の種は「善い種」ではなかった、という意味になる。

つまり、ルカが属するキリスト教教団の教えだけが「善い種」であり、ルカ教団の信仰生活を守ることだけが「実」を結ぶ、という趣旨にしたのである。

 

マルコが、「一、三十。一、六十。一、百」と数字を対比させて、多少の無駄を気にするよりも、全体として多くの収穫があることを喜ぼうとしているのに対し、ルカは「百倍」だけを取りあげている。

 

実際の種まきと収穫を考えているのではなく、自教団とは異なるキリスト教団の信仰生活の比喩として解釈しているからであろう。

 

三十倍や六十倍を削ったのは、他教団の信仰生活も「善い」実を結ぶ教団であることを認めたくなかったからではないかと思われる。

 

ルカは、マルコの「言葉」を、属格定冠詞付きの「神の言葉」と言い換えている。

 

ルカにとっての「神の言葉」とは、ただ一つの教会を通して語られる「神の言葉」だけを指し、「善い実」とは、「善なる心」で教会を通して語られるただ一つの「御言葉」を忠実に実践する者だけを指すのであろう。

 

 

 

マタイとルカは、マルコから弟子たちに対する批判的精神を消し去り、弟子集団を擁護するイエス像を作り上げている。

 

マルコの表現を削ったり、変えたり、独自の解釈を加味したりしながら、マルコを換骨奪胎させているのである。

 

マルコをベースにしながら別のQ資料伝承を組み込んだり、自教団のキリスト信仰やキリスト教ドグマを織り込みながら、彼らの好みに合わせて福音書を再構成しているのである。

 

 

この「種まく者の譬」「譬話論」「譬の解説」の三部構成からなる伝承は、マルコ、マタイ、ルカのキリスト教観の違いがはっきりと読み取れるのである。

 

 

初期キリスト教が、十二使徒を中心とした一枚岩で出発したキリスト教団であり、伝播の途上で正統派から種々の教派に分派して行ったとする護教的定説は根拠の乏しい信仰の所産のように思えるのである。

 

 

むしろ、原始キリスト教のはじめから、種々のキリスト教が存在しており、それぞれ地中海資本主義世界の中で自治的に活動していたものと思われる。