マルコ2:23-28 <安息日問題> 並行マタイ12:1-8、ルカ6:1-5

 

マルコ2

23そして、安息日に彼が麦畑を通る、ということがあったそして彼の弟子たちが穂をつみながら道を進んで行った24そしてパリサイ派が彼に言った、「見よ、なぜ安息日に許されていないことをするのか」。25そして彼らに言う、「ダヴィデが困って飢えた時に何をしたか、読んだことがないのか。ダヴィデ自身とその仲間が26アビアタルが大祭司だった時に神の家にはいって、祭司しか食べることが許されていない供えのパンを食べ、また一緒に居た者たちにも与えた、ということを」。27そして彼らに言った、「安息日は人間のためにあるのであって、人間が安息日のためにあるわけではない。28だから人の子はまた安息日の主でもある」。

 

マタイ12

1その頃、イエスは安息日に麦畑を通った。彼の弟子たちは空腹で麦の穂をつんで食べはじめた。2パリサイ派が見て、彼に言った、「見よ、あなたのお弟子さんたちが安息日にしてはならないことをやっておいでだ。」。3彼は彼らに言った、「ダヴィデとその仲間が空腹だった時、何をしたか、お読みになったことがないのか。4神の家にはいって、祭司以外には誰も、ダヴィデもその仲間も、食べてはいけなかった供え物のパンを食べたということを。5あるいは、安息日に神殿にいる祭司は、安息日を無効にし咎められることがない、ということを律法でお読みになったことがないのか。6あなた方に言う、ここには神殿よりも大きなものがある7もしもあなた方が、我、慈悲を望む。犠牲(の供え物)ではないというのがどういうことかわかっていたら、咎められるところのない者たちを告発したりはしなかっただろう。8何故なら人の子が安息日の主であるのだから」。

 

ルカ6

ある安息日に彼が麦畑を通る、ということがあった。そして弟子たちが穂をつんで、手で揉みながら食べた。そこで人かのパリサイ派が言った、「なぜあなた方は安息日に許されていないことをするのか」。イエスは答えて彼らに言った、「ダヴィデとその仲間が空腹だった時にしたことを読んだことがないのか。彼は神の家にはいって、祭司以外は食べることを赦されていない供えのパンを取って食べ、仲間にも与えた、ということを」。そして彼らに言った、「人の子は安息日の主である」。

 

 

この「安息日問題」も構造的には二つの伝承が合成されたものと考えられる。

「安息日」に赦されていないことの是非というテーマで見ると、23‐24節の導入部と27‐28節の結論部で一つの話が構成されている。

 

間に挟まれている25-26節のダビデに関する話(サムエル上21:1‐6)は、神殿に備えられたパンを祭司以外の者が食することの是非に関するものである。

「安息日」に食することの是非とは本来無関係である。

 

ダビデの話があるので、「飢えた時」という危急の場合には、「安息日」に関する規定を破ることは赦される、という論理が成立する構造となっている。

 

 

「人の子は安息日の主である」という有名なイエスの言葉の伝承である。

結論は、三人ともほぼ同じ表現となっている。

しかし、言わんとする事柄は三者三様である。

 

 

マルコは、「断食問答」の続きという設定である。

ルカは、マルコの構成を継承し、「断食問答」の続きとしている。

 

マタイはマルコの構成を変え、「断食問答」の後に、奇跡物語や使徒派遣物語やQ資料由来のイエス伝承を置いている。

マルコにおける「安息日問題」と次段の「安息日の癒し」は12章に移動させている。

 

「安息日問題」では、「断食問答」とは異なり、ヨハネの弟子たちは登場せず、三者ともパリサイ派がイエスの弟子たちの行動を批判するという構図で始まる。

 

マルコ2

23そして、安息日に彼が麦畑を通る、ということがあったそして彼の弟子たちが穂をつみながら道を進んで行った24そしてパリサイ派が彼に言った、「見よ、なぜ安息日に許されていないことをするのか」。

 

マタイ12

1その頃、イエスは安息日に麦畑を通った。彼の弟子たちは空腹で麦の穂をつんで食べはじめた。2パリサイ派が見て、彼に言った、「見よ、あなたのお弟子さんたちが安息日にしてはならないことをやっておいでだ。」。

 

ルカ6

ある安息日に彼が麦畑を通る、ということがあった。そして弟子たちが穂をつんで、手で揉みながら食べた。そこで人かのパリサイ派が言った、「なぜあなた方は安息日に許されていないことをするのか」。

 

 

マルコの「そして…ということがあった」(kai egeneto)という書き出しの動詞は、非人称的三人称中動相。

マルコではkai egenetoで始まる文が多く登場し、1:9「イエスの洗礼」伝承でも使われている。

厳密に出来事が生じた特定の日時を規定しているわけではなく、「そのような出来事があった」という趣旨。

 

マルコの「断食問答」では、必ずしも「ヨハネの弟子たち」や「パリサイ派」との間に、論争が生じていたというよりも、「断食」に関する是非の問題が存在する事実が指摘されていた。

 

しかし、「安息日問題」では、イエスの弟子たちの行動に関して、パリサイ派の方から、論争を仕掛けている。

 

おそらく、「イエスの弟子たち」と「パリサイ派」の間には、実際に「安息日」に関して、論争が起きていたのであろう。

 

「安息日に」(en tois sabbasin)とあるが、原文は定冠詞付き「安息日」の複数形。

安息日は七日毎に訪れるので、慣用的に複数形であっても、一つの「安息日」を指す。

複数形であるが、「安息日ごとに」あるいは「複数の安息日の日に」という趣旨ではない。

「ある安息日に当たる日」に、イエスが「麦畑を通る」(paraporeuesthai dia tOn sporimOn)という出来事があった、という趣旨。

 

 

マタイは、前段を受けて、「その頃」(en ekeinO tO kairO)としているが、直訳は「その時点で」。

 

マタイの口癖である「その時」(tote)とは異なり、前述の「出来事」と「時」を一致させる表現である。

マタイは、前段の11:25でも使っている。

 

マタイ11:25の並行記事であるルカ10:21では、「その同じ時に」(en autE tE hOra)と、マタイと同じような言い方をしている。

 

おそらく、マタイもルカも共通資料(Q資料)の伝承を写しているのだろう。

 

つまり、マタイのQ資料には「その頃」、ルカのQ資料には「その同じ時に」という導入句が付いていたと思われる。

 

マタイは、「安息日問題」を始めるにあたり、前段のQ資料にあった「その頃に」という導入句を拝借したのであろう。

 

ここでの「その頃に」とは、単に「同じ時期に」という趣旨で、次の話に移っているだけで、前の話との直接的な繋がりはない。

 

マタイは、「その頃」に続く、「イエスは安息日に麦畑を通った」(eporeuthE ho iEsous tois sabbasin dia tOn aporimOn)に関しては、主語の「彼」(autOn)を「イエス」(ho iEsous)に変え、動詞も変えているが、意味はマルコと同じ。

 

 

ルカの書き出しは、「ある安息日に彼が麦畑を通る、ということがあった」。(egeneto de en sabbatO diaporeuesthai auton dia sporimOn)

マルコのkai egenetoをegeneto deに変え、定冠詞の使い方にも、修正を施してくれている。

マルコにおける「安息日」の定冠詞を削り、複数形を単数形に修正し、麦畑の定冠詞を削っている。

 

マルコはユダヤ人であり、安息日は律法で定められているので、アラム語的に定冠詞を付けた複数形で表現したのであろう。

 

ギリシャ語人間のルカは、この話で初めて出て来る「安息日」に定冠詞をつけるのはおかしいので、削り、「複数形」にするのもおかしいと思い、「単数形」に変えてくれたのであろう。

 

動詞の「通る」もマルコとルカでは、接頭語がparaからdiaに代わっているだけで、主語が単数の「彼」であるから意味は同じ。

 

ルカは、わざわざマルコとは異なる接頭語を充ててくれている。

おそらくマルコがdia-を使っていたなら、ルカはpara-を使ったと思われる。

 

 

マルコの「穂をつみながら道を進んで行った」の原文は、(Erchanto hodon poiein tillontes tous stachuas)。

「道を進んで行った」(Erchanto hodon poiein)の直訳は、「道を作りはじめた」。

原文には、「はじめた」(Erchanto)という動詞が付いている。

この「はじめた」とは単なる未完了過去形の代替であり、アラム語の言い方が影響したもの。

その時から「~し始めた」という趣旨ではない。

 

マルコに関する限り、「はじめた」(Erchanto)という動詞が付いていても、「~した」と言うのと意味上大差ないようである。

ここも、「道を進み始めた」ではなく、単に「道を進んで行った」という趣旨。

 

マルコは「進んだ」(poiein)の動詞を能動相にしている。

文法的には、文字通り「道を作る」という意味になる。

 

しかし、ここは、単に麦畑の中を「進んで行った」、という趣旨であり、麦畑の道のないところに「道を作って行った」という趣旨ではないであろう。

「麦畑の中を進んで行った」という趣旨であるなら、能動相ではなく、中動相にすべきところ。

 

マルコのギリシャ語はアラム語発想であり、能動相と中動相が混同してしまったのだろう。

 

 

弟子たちは、「穂をつみながら道を進んで行った」のであるが、パリサイ派は「なぜ安息日に許されていないことをするのか」と批判してくる。

 

出エジプト記34:21では、安息日に「耕作と刈入れ」を休むべきこととして規定している。

ミシュナの「安息日」の項7:1~に、「種まくこと、耕すこと、取り入れすること…」がしてはいけないこととして登場する。

 

しかし、申命記23:26(25)で、他人の麦畑を通る時に、釜で刈り取ることは禁じられているが、その穂をつんで食べることに関しては容認されている。( )は七十人訳の数字。

 

これは旧約律法の「人道主義的特色」の一つ。

他人の畑に鎌を入れて刈れば、他人の所有物を盗むことになるが、通りすがりに穂をつんで食べるぐらいなら、寛容をもって許される、ということ。

 

つまり、パリサイ派がここで文句をつけているのは、他人の畑の麦の穂を取って食べたという点ではなく、安息日にそういう行為をしたという点にある。

 

とすれば、安息日に禁じられているのは、「耕作」と「刈入れ」であるから、パリサイ派は弟子たちの「麦の穂をつむ」という行為が、「刈入れ」に相当すると非難していたことになる。

 

しかしながら、旧約律法的にもパリサイ派的律法解釈にも、「麦の穂をつむ」という行為が、安息日律法の「刈入れ」行為に違反するという規定に該当する根拠は存在しない。

 

パリサイ派は律法を知らない一般群衆を「地の民」(アム・ハー・アーレツ)呼んで、蔑視していた。

 

安息日に関しても律法の細かい規定など知らなかったので、彼らとしては、違反を宣告されたら、律法の規定と解釈から反論することもできず、口を閉ざすだけだったであろう。

 

 

パリサイ派の批判に対して、彼らと同じ知識人的論法で対抗しようとするなら、申命記23:26(25)を根拠にすればよい。

「麦の穂を手でつむ」のは許されている行為であり、「鎌を使って刈入れている」のではないから、「刈入れ」の作業には当たらないことを指摘すれば、パリサイ派の批判を論破できる。

 

もし、イエスがそう答えていたならば、パリサイ派と対立した存在とはならず、むしろ優れた律法学者として名を残したであろう。

 

しかし、マルコのイエスはパリサイ派と同じ土俵に上り、論破することを選択しなかった。

 

 

マタイは、マルコの文に「空腹である」(epeinasan)という主動詞を付加し、イエスの弟子たちが麦の穂をつんで食べはじめたのは、「空腹」故のこととした。

マルコでは、弟子たちが「空腹だった」とは書かれていない。

 

その結果、マタイでは「空腹」時における「穂をつんで食べる」という行為が、「安息日」律法の禁忌に抵触するのかどうかという問題にすり替わっている。

 

マルコでは、単に「穂をつむ」行為が「安息日」律法を破る行為に当たるのかどうかという問題であった。

 

マタイは、普通なら「安息日」には許されない行為であるが、「空腹」という緊急の場合なら、許される、という律法学者的な解釈の問題として展開しようとしているのである。

 

 

ルカは、マルコの文に「手で揉みながら」(psOchntes tais chrsin)という分詞句を付加している。麦穂をつんで食べる場合には、穂先の芒(ノギ)を手で揉んで、取ってから、口に入れるものである。

 

「穂をつむ」ことが「刈入れ」に相当するだけでなく、麦を「手で揉み」、芒を取ることが「脱穀」に相当し、安息日違反として告発するパリサイ派の姿勢を織り込もうとしたのであろうか。

 

しかし、前述のミシュナ7:1~の「安息日」の項には、「手で揉む」ことが、「脱穀」に相当するとは書かれていない。

 

純粋ギリシャ人であるルカが旧約律法だけでなく、その解釈の細部まで精通していたとは考え難い。

 

単に細かい手順にうるさいだけであろう。

 

 

マルコの「パリサイ派」(hoi pharisaioi)は、定冠詞付き複数形の「パリサイ人」であるから、文法的には「パリサイ派」の宗派という意味になる。

 

ルカはこの場面で「パリサイ派」という宗派組織が弟子たちの行動を問題視していたとするのはおかしいと考えたのだろう。

 

「一部のパリサイ派の人間が」という趣旨になるように、「何人かのパリサイ派が」(tines de tOn pharisaiOn)と、訂正して書き出してくれている。(deは書き出しの接続小辞)

 

ルカさんは、この種の細かい知識を披露なさるのがお好きなようである。

 

「なぜ安息日に許されていないことをするのか」というパリサイ派の質問に対して、イエスは旧約の故事を引き合いに出して、返答する。

 

マルコ2

25そして彼らに言う、「ダヴィデが困って飢えた時に何をしたか、読んだことがないのか。ダヴィデ自身とその仲間が26アビアタルが大祭司だった時に、神の家にはいって、祭司しか食べることが許されていない供えのパンを食べ、また一緒に居た者たちにも与えた、ということを」。

 

マタイ12

3彼は彼らに言った、「ダヴィデとその仲間が空腹だった時何をしたか、お読みになったことがないのか。4神の家にはいって、祭司以外には誰も、ダヴィデもその仲間も食べてはいけなかった供え物のパンを食べたということを。5あるいは、安息日に神殿にいる祭司は、安息日を無効にし咎められることがない、ということを律法でお読みになったことがないのか。6あなた方に言う、ここには神殿よりも大きなものがある7もしもあなた方が、我、慈悲を望む。犠牲(の供え物)ではないというのがどういうことかわかっていたら、咎められるところのない者たちを告発したりはしなかっただろう。

 

ルカ6

イエスは答えて彼らに言った、「ダヴィデとその仲間が空腹だった時にしたことを読んだことがないのか。彼は神の家にはいって、祭司以外は食べることを赦されていない供えのパンを取って食べ、仲間にも与えた、ということを」。

 

 

三者とも、ダビデにおける旧約の故事をイエスになぞらえて取り上げている。

 

しかし、イエスの事実をそのまま伝えている部分は、マルコにおける23-24節と27-28節だけで構成されており、おそらく、元来の原伝承では旧約のエピソードは付いていなかったものと思われる。

 

25-26節は、イエスがダヴィデ王に対応する存在であることを前提としている。

つまり、イエスをダヴィデの系図に繋がるメシアとして信仰されるようになってからの伝承であり、初期キリスト教団によって付加されたものと考えられる。

 

 

マルコは、最初「ダヴィデが…」(dabid…)と言っているのに、次には「ダヴィデとその仲間が」(autos kai hoi met autou)と言い直している。

 

直前の文の主語をもう一度厳密に言い直す時に、改めて主格の句を付加するのは、マルコの癖。

「その仲間」(hoi met autou)の直訳は、「彼とともにいる者たち」。

次の「一緒にいる者たち」(tois syn autO)とは、前置詞が違うだけ。

この表現は、主人に対するお伴の者たちを指す場合にも用いる。

 

ただし、この時点におけるダヴィデの場合、王となっていたわけではなく、若者放浪集団を形成していただけである。

 

 

マタイは、マルコを写しながら、初めから「ダヴィデとその仲間たち」(autos kai hoi met autou)を主文の主語として読めるように、マルコの文を修正してくれている。

 

 

マルコは「アビアタルが大祭司だった時に」(epi abiathar tou archiereOs)としているが、本当はアビアタルの父であるアヒメレクが大祭司である。(サムエル記上21:1-6参照)

 

ダヴィデはサウルの陰謀から逃れるために若者たちと逃亡生活を送ることになるが、アビアタルはその時から行動を共にした盟友である。

マルコは、アビアタルがダヴィデ集団で祭司的役割を担っていたので、「大祭司」と勘違いしていたのだろう。

 

とすれば、「アビアタルが大祭司だった時に」という句は、マルコの付加ということになる。

 

マタイもルカも、おそらくマルコの間違いに気付いたのであろう。

その句を削ってくれている。

 

 

このダヴィデ物語がなければ、「安息日問題」は、「安息日」というユダヤ教的宗教規定そのものの是非、という問題ではなく、「安息日」の存在を前提とした上で、その「施行細目」の是非、という問題にすり変わらない。

 

ダヴィデの話がなければ、「空腹時」という危急的状況においては、「安息日」の施行細目は限定的に正当化され得る、という結論には誘導できないことになる。

 

しかし、マルコには、弟子たちが「飢えていた」時に「穂をつんで」、「食べた」、とは記されていない。

 

マルコによれば、「困って飢えた時」に「供えのパン」を食べたのは、「ダヴィデとその仲間」であるが、「イエスの弟子たち」は「穂をつみながら道を進んで行った」だけである。

 

マルコでは「イエスの弟子たち」が麦の穂を「食べた」とも書かれていない。

 

「イエスの弟子たち」が「空腹で食べた」と記述しているのはマタイであり、マルコではない。

 

ルカも「穂をつんで、食べた」とは、書いているが、「空腹で食べた」とは、書いていない。

 

 

マタイは、「空腹」という緊急事態が生じた場合には、「安息日」の律法を破ることも許されるという論理をさらに展開するために、マルコの文に、新たに5-6節を付加している。

 

おそらく、マタイ個人による付加というのではなく、マタイの属する教会の指導者たちによって提唱されていた解釈であろう。

 

マタイは、いわゆる「マタイ学派」における「旧約研究」の成果をここに織り込んだのであろう。

 

マタイのイエスは、「安息日に神殿にいる祭司は、安息日を無効にし、咎められることがない」と主張する。

 

「安息日を無効にする」(to sabbaton bebElousin)の直訳は「安息日を踏みつける」。

「定められた法律を破って犯罪を犯す」という意味ではなく、「法の規定そのものを無効にする」という趣旨。

 

「咎められることがない」(anaitioi)は、否定辞a-に「咎める、告発する」(aiteO)という動詞を形容詞化したもの。

 

和訳聖書のすべてが、「罪がない」(岩波訳)、「罪にならない」(フ会訳、新共同訳、新改訳、NWT、RNWT他)と「罪」という語を使っている。

 

厳密には、「告発」とは裁判が行われる前提で、裁判以前における起訴の段階の表現。

「罪」は、裁判の結果としての判決を経た段階での表現。

 

ここでは、「告発することがない」(anaitioi)ということであるから、「起訴にも値わぬ」事案であると言っていることになる。

 

マタイでは、イエスが、律法で読んだことがないのか、とパリサイ派に問う。

 

しかし、実際のイエスが「律法」の条文を根拠に、パリサイ派や律法学者たちを論駁することなどありえない。

 

そんなことをすれば、ユダヤ教「律法」の絶対性を前提に、パリサイ派と同じ土俵の上で、イエスをパリサイ派以上の律法学者として、律法談議の論理を展開することになる。

 

マタイはイエスをユダヤ教の律法学者以上の偉大な律法教師として描こうとしているのである。

 

だが、旧約律法にマタイが指摘する安息日に関する祭司の特権事項が規定されている箇所は、実際には存在しない。

 

ただし、民数記28:9‐10には、安息日に祭司によって神殿でなさればならない供え物の規定が記されている。

 

安息日を無効にする権限が祭司にあるわけではないが、安息日の供え物に関する規定を実行するためには、当然、祭司は祭司の仕事をする必要がある。

 

つまり、「安息日」に仕事をしてはならない、という規定に関しては、「安息日」に「祭司の仕事」をする「祭司」を、はじめから除外しているのである。

 

そのような、律法の重箱の隅をほじくるような解釈を根拠に、祭司は安息日の規定を免れているという論理を聖書に書かれているとして正当化しようとするのは、いかにも律法学者的手法である。

 

このイエスの発言は、自分を祭司に見立てていることを前提とした発言であり、到底イエス自身の発言とは考えられない。

 

エルサレム崩壊後のラビ的ユダヤ教では、旧約律法の規定に解釈的要素を盛り込み、「神殿に仕える仕事は安息日の規定を押しやる」ということが、一般的に言われるようになっていたようである。

 

マタイは、祭司が安息日を無効にする権限を持つことに言及した後、「ここには神殿より大きなものがある」(tou hierou meizOn estin hOde)と宣言する。

 

「神殿」(tou hierou)も「より大きなもの」(meizOn)も中性形である。

男性形ではないが、「より大きなもの」とは、イエス自身を指しているのは明らかである。

 

中性名詞の「神殿」とイエスが比較されているので、「より大きなもの」も中性形としているだけであろう。

比較級で並べる際、対象となる性を揃えるのは、ごく自然な文法的手法である。

 

「より大きなもの」が中性形であることを根拠に、イエス自身を指すのではなく、イエスのもたらした「神の国」を指すとか、イエスの「宣教」を指すと解釈するのは無理がある。

 

マタイのイエスは、自分がユダヤ教の「神殿」と比較して、「より大いなるもの」、「より偉大な存在」である、とパリサイ派に宣言する。

 

マタイは、イエスがユダヤ教の正統な継承者であり、預言されていたユダヤ教におけるメシアであることを織り込もうとしているのであろう。

 

さらに、「我、慈悲を望む。義性(の供え物)ではない」(eleon thelO kai ou thusian ouk an katedikasate)という旧約ホセア6:6を引用して、語らせている。

 

マタイはこの句を9:13でも引用しており、お気に入りの旧約箇所である。

マタイがマルコの文に律法における人道主義の要素を付加したのは、「慈悲」の精神を擁護する律法の条文を良く知っていたからであろう。

 

マタイは、神が「義性の供え物」ではなく、何より「慈悲」を望んでいることを指摘し、「安息日律法の遵守」の是非よりも、「慈悲」の有無によって、「罪」を計るべき、と考えているのだろう。

 

「慈悲」の精神を理解していたなら、「咎められるところのない者たちを告発したりはしなかっただろう」と訴える。

 

マタイは、マルコを参考に、旧約を引用しながら、マタイ学派のキリスト教解釈を付加し、自分の福音書に織り込んだのである。

 

 

ルカは、マルコの「アビアタルが大祭司だった時に」という句を削除した以外は、マルコの文を多少言い換えているだけでそのまま写している。

 

 

イエスは、旧約に関する故事に続いて、「安息日」に関する結論をパリサイ派に突き付ける。

 

マルコ2

27そして彼らに言った、「安息日は人間のためにあるのであって、人間が安息日のためにあるわけではない。28だから人の子また安息日の主でもある」。

 

マタイ12

8何故なら、人の子が安息日の主であるのだから」。

 

ルカ6

そして彼らに言った、「人の子は安息日の主である」。

 

 

マルコにおけるパリサイ派の「なぜ安息日に許されていないことをするのか」という批判に対して、イエスは「安息日」の存在そのものの意義に焦点を当てる。

 

25-26節の初期教団による付加と思える箇所を除くと、イエスは旧約を前提に、律法をめぐる解釈で対抗しようとするわけでも、旧約の故事を理由にして論理を展開しようとするのでもない。

 

「なぜ安息日に許されていないことをするのか」というパリサイ派の非難に対して、「安息日は人間のためにあるのであって、人間が安息日のためにあるわけではない」(to sabbaton dia ton anthrOpon egeneto ouch ho anthrOpos dia to sabbaton)と応じる。

 

「人間のためにある」(dia ton anthrOpon egeneto)の「人間のために」(dia ton anthrOpon)の直訳は、「人間の故に」。

 

「ある」(egeneto)は、kai egenetoというマルコの書き出しでおなじみの「生じる」という意味。

 

ここはアオリスト形であるから、「生じた」という意味であるが、「安息日」という制度は、自然に「生じた」ものではなく、人間が作り出した制度である。

 

「ある」「存在する」という意味のギリシャ語には、英語のbe動詞に相当するeimiという語がある。

egenetoの方がeimiより、少し意味が強く、「生じた結果そこにある」という感じ。

 

ルターはist gemacht、ティンダルはwas madeと「作られた」と訳しており、その伝統を踏襲する訳も多い。

 

和訳聖書でも、「できた」(岩波訳)、「設けられた」(フ会訳、文語訳)、「定められた」(新共同訳)、「つくられた」(Living B)、「存在する」(NWT)。

 

新改訳は、前半を「設けられた」、後半を「造られた」、RNWTは、前半を「設けられた」、後半を「存在する」と訳し分けている。

 

しかし、原文では、「人間のためにある」(dia ton anthrOpon egeneto)という肯定文に続いて、「人間が安息日のためではなく」(ouch ho anthrOpos dia to sabbaton)という否定句が続いているだけで、動詞は、egenetoで共通している。

 

肯定句と比定句をkaiで繋いで、対比させ、一つの同じ動詞を共通させて、表現している文である。

 

同じ意味で使っている原文の動詞を、肯定する対象と否定する対象とによって別々の意味に訳すのは、何らかの解釈を織り込もうとしているのだろう。

 

「作られた」(ektisthE)としている写本がいくつかある(W、f13など)が、egenetoでは分かりにくいと思った写本家が、修正してくれたのであろう。

 

原文の読みではないことは明らかである。

 

「安息日は人間のために作られたのであり、人間が安息日のために作られたのではない」と訳すと原文の趣旨と微妙に異なってくる。

 

「安息日」は神or人間が人間の益を図って作った制度であるが、「安息日」の厳密な遵守よりも、人間の存在の方が重要である、という趣旨に読むことになる。

 

しかし、マルコは「安息日」の遵守を前提に、律法の適用を解釈しようとしているのではない。

 

「安息日に穂を摘む」ことが許されるかどうかを問題にしているのではなく、「安息日」という律法の存在そのものに異議を唱えているのである。

 

マルコおけるパリサイ派の異議は「安息日に穂を摘む」ことが赦されているか否かという問題であった。

 

それに対するマルコのイエスの答えは、明白である。

「安息日は人間のためにあるのであって、人間が安息日のためにあるわけではない」。

「だから、人の子は安息日の主でもある」というのがその答えである。

 

人間は、「安息日」のような人間を無用に縛りつける宗教的規範の奴隷となるべきではない。

宗教的規範を守るために人間が存在しているのではない。

 

「安息日」の主権は、人間にあるのだから、人間が作った宗教規範や制度に縛られる必要はないではないか、というのがイエスの発言の趣旨となる。

 

この「ある」を「作られた」という趣旨に読むと、マルコのイエスの主張が曖昧となってしまう。

 

「人間が安息日のために作られたのではない」と読むと、「安息日」も「人間」も、神によって「作られた」ものであるが、「人間」は「安息日」のために「作られた」のではない。

 

だから、「安息日」律法の遵守よりも「人間」の方がより重要な存在だ、という趣旨に読んでしまうことになる。

 

 

解釈はともあれ、原文には「作られた」とは書かれていないのに、原文には「作られた」と書かれていると勘違いされてしまう危険性もある。

 

 

キリスト教はユダヤ教から引き継いだ正統な宗教であると自負していた初期キリスト教団は、ユダヤ教との融合を図っていた。

 

それで、元伝承に25-26節の旧約物語を付加して、「安息日問題」のキリスト伝承として流布させたと思われる。

 

元伝承における「安息日」の存在そのものを否定する伝承ではなく、「安息日」の存続を前提に、条件付きで否定する伝承にすり替えようとしたのだろう。

 

マタイにおける更なる旧約からの引用や付加は、その流れを汲んでいる。

 

 

マルコにおける「安息日問題」は「安息日は人間のためにあるのであって、人間が安息日のためにあるのではない」というイエスの結論に導くことにある。

 

「だから、人の子は安息日の主でもある」(hOste kurios estin ho huios tou anthrOpou kai tou sabbatou)と続くのである。

 

「だから」(hOste)と、前の文を受けて続けているのだから、「人の子」(ho huios tou anthrOpou)とは、前文の「人間」(ton anthrOpon)を言い換えたものである。

 

「キリスト」という意味でも、終末時の「メシア」という意味でも、再臨の「イエス」という意味でもない。

 

「安息日」と「人間」とを対比させて、「人間」を「人の子」と言い換えているだけである。

 

さらに28節の方でも「人の子」と「安息日」をkaiで繋いでいる。

 

27節と合わせて読むと、人間は、「人の子」の「主人」として存在しているのであり、「安息日の主人」でもある、との主張とも読める。

 

「ある」(egeneto)を「作る」と訳してしまうと、「人間」の主人は「人間」であり、「人間」は「安息日」の主人でもあるのだから、「安息日」の奴隷となるべきではない、というマルコのイエスの主張が見えなくなってしまう。

 

 

マタイもルカも「安息日問題」におけるマルコの27節のイエスの発言を、二人とも綺麗に削除している。

 

「安息日は人間のためにあるのであって、人間が安息日のためにあるのではない」という一文をそっくり、削除してくれたのである。

 

マタイは、「なぜなら、人の子が安息日の主であるのだから」(kurios gar estin tou sabbatou ho huios tou anthrOpou)と続けている。

 

マルコが「だから」(hOste)と続けているのを、マタイは、「何故なら」(gar)と「人の子が安息日の主である」ことを前提に、「安息日問題」を解釈させようとしている。

 

マルコが「人の子」でも「安息日」でも、(ho huios tou anthrOpou kai tou sabbatou)としているのに、マタイは「また…も」(kai)を削除している。

 

マタイは、「主である」(kuriou estin)の「主」(kuriou)を「キリスト」を指すと読ませようとしているのである。

 

マタイはマルコの「人の子は安息日の主である」という文に、キリスト信仰を織り込んで読ませようとしている。

 

イエスは「主」である「キリスト」様であり、「神殿より大きいもの」である。

 

イエスは、「安息日」の主人であるの「だから」(gar)、「安息日」の規定を無効にできる。

 

そのことは、旧約の故事や祭司の特権事項からも明らかである、とマタイは主張したいのである。

 

しかも、マタイは「我、慈悲を望む。義性の供え物ではない」というお気に入りの旧約文を付加している。

 

マルコでは「安息日」という宗教規定の是非という問題であったのであるが、マタイでは宗教規定の違反における「慈悲」の重要性という問題にすり替えられてしまったのである。

 

 

マルコがわざわざ「だから」(hOste)という語を入れたのは、「人の子が安息日の主である」ことの理由を述べるためではなく、前文に論理における当然の帰結として述べるためである。

 

分かりやすく言うと、「安息日は人間のためにあるのであり、逆ではない」。

つまり、人間は安息日の奴隷ではなく、安息日に支配されるべきではない。

だから、当然の帰結として、人の子(人間)は、「人間」の奴隷でもなく、「安息日」という規定の奴隷でもなく、主人でもあるのだ、というのがイエスの発言の骨子である。

 

このイエスの発言は、パリサイ派の非難に対する反論である。

「安息日に穂を摘むという律法上では赦されない行為をしていた」とする「イエスと弟子たち」に対する反論である。

 

従がってこの反論の中で「人の子」と呼んでいるのは、「イエスと弟子たち」を指すことになる。

 

イエス個人が「人の子」という特別な称号で呼ばれる存在であるから、「人の子」だけが「安息日の主」という主権を持つ存在であると言っているのではない。

 

「イエスも弟子たち」も含めて、「人の子」である我々人間は、誰でも「安息日の主人でもある」という存在なのだ、ということを「また…も」(kai)という語で示唆しているのである。

 

 

ところが、マタイとルカは、マルコのイエスが主張したもっとも重要なイエスの主張を削っただけでなく、この「また…も」(kai)まで削ってしまったのである。

 

マタイは、マルコの「だから」(hOste)という前文を受けて結論に導く接続詞を、「なぜなら」(gar)という前文の理由を導く接続詞に変えてしまった。

 

これでは、「人の子が安息日の主である」のだから、5‐6節のことが赦される存在なのだ、と主張していることになる。

 

マルコのイエスが述べた「人の子」という意味も「安息日の主」という意味も、「イエス」という特別な存在を示唆するイエスの発言に変わってしまったのである。

 

 

ルカも、「人の子は安息日の主である」(kurios estin tou sabbatou ho huios tou anthrOpou)と、マルコのkaiを削除している。

 

ルカはマタイとは異なり、マルコの文に余計な付加は施してはいない。

しかし、マルコがなぜその結論に至ったのかを示すイエスの言葉を省き、単に前文の続きとして「人の子は安息日の主である」と続けている。

 

「だから、人の子は安息日の主でもある」という文の「だから」(hOste)と「また…も」(kai)を削除している。

 

そのおかげでマタイと同じく「人の子」と「安息日の主」という呼称が特別な意味を帯びたものとなってしまっている。

 

ルカによれば、イエスは「ダヴィデ」に相当する人物であり、祭司以外は食べることを赦されていないパンを取って食べることも、仲間にも与えることができる人物である、と主張していることになる。

 

イエスはそのような王的「人の子」であり、祭司的「安息日の主」という存在なのだ、ということになる。

 

 

 

 

 

マタイ12:5の「無効にする」(田川訳)、「神聖でないもののように扱う」(NWT)、「守らない」(RNWT)、と訳している原文のギリシャ語(anaitoi)の原義は、「踏みつける」。

 

宗教的法的な語法としては、法を破って犯罪を犯すという意味ではなく、「法の規定そのものを無効にする」という趣旨。

 

NWTのように「神聖でないもののように扱う」と訳すと、「安息日」に代表されるような一般には「神聖」とされている律法規定であっても、祭司には「神聖ではないもののように扱う」権限が付与されており、「守らなくても」(RNWT、「罪にはならない」ことが「律法」の中に書かれている、と読めることになる。

 

WT流に拡大解釈すると、ユダヤ教はキリスト教によって廃されたのであるから、現在の祭司である「統治体」が、WT教以外の宗教を神聖なものとして扱わなくても、聖書の規範を「守らなくても」、「罪にならない」と聖書の中に書かれている。

 

統治体の無罪放免が神から保証されているのだから、「統治体」を支持するJWにも同様の保証がある、と読むWT教信者もいるのではなかろうか。

 

 

WT82/10/15の「読者からの質問」では、WT読者の中には、「命を救うためであれば(宣教活動も含む)、神の律法を破ってもよい、という根拠をマタイ12:1‐8に求める読者の存在を認めている。

 

わざわざ統治体に質問を寄せるのであるのだから、その多くはJW信者であろう。

WT資料だけに頼り、間違った結論を出す「うのみの塔」信者が現在でもいるかもしれない。

 

*** 塔82 10/15 30ページ 読者からの質問 ***

■ マタイ 12章1‐8節を根拠に時々言われることですが,命を救うためであれば神の律法を破ってもよいのでしょうか。

ある人々はそのような考えを持っていて,その裏付けとしてマタイ 12章1‐8節を引き合いに出しますが,聖書を注意深く考察するなら,それは間違った結論であることが分かります。

イエスの弟子たちは,穀物畑の中を通った際,律法で許されているように,畑に残されていた穀物の穂を少し集めました。(レビ記 19:9,10。申命記 24:19‐21)パリサイ人は,安息日にこれを行なったとしてイエスの弟子たちを非難しました。これらの宗教指導者は律法に数々の解釈,それも特に安息日にしてはならない不法な「仕事」に関する様々な解釈を加えていました。これらの人間の規則およびその背後にある律法偏重の精神からすれば,弟子たちの行なった事柄は二つの形態の仕事,つまり収穫(『むしること』)と脱穀(穀物を『こすること』)に当たり,罪を犯していたことになったのです。(マタイ 12:1。ルカ 6:1)しかし,イエスは次のように言われました。

「あなた方は,ダビデおよび共にいた人たちが飢えた時にダビデが何をしたかを読まなかったのですか。すなわち,[彼ら]が……供え物のパンを食べたことを。それは,彼も,また共にいた者たちも食べることを許されず,ただ祭司たちだけに許されたものだったのです。またあなた方は,安息日に神殿にいる祭司たちが安息日を神聖でないもののように扱っても罪にならないことを,律法の中で読んだことがないのですか。ところが,あなた方に言いますが,神殿より偉大なものがここにいるのです。しかし,『わたしは憐れみを望み,犠牲を望まない』ということの意味を理解していたなら,あなた方は罪科のない者たちを罪に定めたりはしなかったでしょう。人の子は安息日の主なのです」― マタイ 12:3‐8。

しかし,マタイ 12章1‐8節にはどのような意味があるのでしょうか。その点を知る必要があります。イエスはパリサイ人の律法を偏重する狭量な見方を暴露しておられたのです。安息日の目的を考慮し,イエスの説明を注意深く読むなら,このことを一層よく理解できます。

イスラエル人が安息日に仕事をしてはならなかったのはなぜでしょうか。その目的は単に仕事を禁じることにありましたか。そうではありません。衣食を備えるために働くといった世俗の様々な仕事に人の時間や関心のすべてが取られることのないようにするためでした。人々は通常の仕事に気を散らさずに崇拝のための時間を取ることができましたから,安息日の取決めは真の崇拝を推し進めるためのもでした。(出エジプト記 20:8‐11。イザヤ 58:13)イエスはパリサイ人の狭量な見方ではなく,このような理解を持つよう励ましておられたのです。

イエスは,神殿で仕える祭司たちでさえ,『安息日を神聖でないもののように扱って』律法を破っていると非難され得ることを指摘されました。なぜなら,祭司たちは安息日に,犠牲の動物をほふるため,忙しく働いたからです。祭司たちは律法違反者でしたか。祭司たちがそのようにしても「罪にならない」とキリストは言われました。神殿におけるその働きは,崇拝を妨げるものではなく,それに寄与するものでした。イエス(「神殿より偉大な」方で最後の犠牲をささげることになっていた方)が弟子たちと共に行動しておられたとき,彼らは神の言葉を教え,そのようにして真の崇拝を推し進めていたのです。ですから,畑に残されていた穂からわずかな穀物を食べたからといって,安息日を破っていたわけではありません。また,イエスが説明されたように,崇拝の日ではあっても,羊を穴から引き出して「魂を救う」ことは安息日の律法の精神に反するものではありませんでした。―マタイ 12:5,11。ルカ 6:9。

供えのパンは祭司たちのものであると律法に述べられていますから,厳密な法解釈の上からは,『ダビデがそれを食べるのは許されない』ことでした。それでも,エホバの大祭司はそのパンをダビデに与えました。どのような根拠に基づいてそうしたのでしょうか。供えのパンの食卓から取り下げられたパンは「聖なるもの」ですから,一般の労働者に与えたり行楽先で食べたりなどして,普通のパンのように取り扱うべきではありませんでした。それは祭司,つまり神の奉仕に携わっている人々のための食物として用いられるべきでした。ですから,ダビデが神に油そそがれた王から与えられた特別の使命と思われるものを帯びた者として現われ,同行の人々も儀式上清いことを大祭司が確認したのであれば,供えのパンを分け与えるのは間違ったことではありませんでした。それは神が意図された基本的な使用目的にかなうものでした。

サウルの軍に属するイスラエルの兵士たちが血に関する神の律法を破ったときの出来事とこれを対比してみるとよいでしょう。その出来事はサムエル記第一 14章32‐35節に述べられています。イスラエルの兵士たちはエホバの民の敵であるフィリスティア人と戦いを行なっていました。戦いで疲れ,空腹を覚えたイスラエル人の中には,動物をほふって,その肉を「血のままで食べだした」者がいました。これは極度の空腹を満たした例であるという主張や,その時は緊急事態であったという主張がなされてはいますが,血に関する律法に違反したことは許されませんでした。それは『エホバに対して罪をおかす』行為であり,『血のままで食べてエホバに対して罪をおかした』者たちのために特別の犠牲が求められました。

血に関する律法を与えるに際して,神は,人間が生きていくために動物の肉を食べてもよいが,血を体内に取り入れて命を支えるべきではないと言われましたから,そのような行為は罪でした。(創世記 9:3,4)『命が危険にひんしている』ように思えるときにはその律法を破ってもよいという許可を神はお与えになりませんでした。創造者は,血は神聖であると布告されました。血で命を救うということは,いかなる方法であれ血を体内に取り入れることによってなされるのではありませんでした。そうではなく,キリストがご自分の血を犠牲として差し出すことによって,永遠の命を得ることが可能になるのです。―エフェソス 1:7。

ローマの権力者たちによって試練に遭わされたクリスチャンたちの記録はこれと一致しており,『生きるか死ぬか』の状況の下では神の律法を破ることができると考えるべきでないとを示しています。クリスチャンたちは血の混じったソーセージを食べるか,闘技場で死ぬかの二者択一を迫られる場合もありました。彼らはに関する神の律法を破って,神のみ前におけるその立場を放棄したでしょうか。あるいは,神としてあがめられる皇帝に対して一つまみの香をたくよう圧力を加えられたとき,偶像礼拝を禁じる神の命令を破ったでしょうか。歴史は忠実なクリスチャンたちが,現在の命が危険にさらされたときでさえ神の命令を破るのを拒んだことを証明しています。これらのクリスチャンは,エホバの律法に従うために命を失うことになっても,とこしえの命に対する確信を抱いていました。―マタイ 16:25,26。

したがって,聖書は,難しい状況の下で神の命令を破ることができるとする見解を支持してはいません。それどころか,次のように記されています。「神を愛し,そのおきてを行なっているなら,それによって,自分が神の子供を愛していることが分かります」― ヨハネ第一 5:2。

 

安息日の仕事に関する解釈は「人間の規則」「律法偏重」であると解説しているが、「安息日」そのものについては、「真の崇拝を推し進めるためのもの」として推奨している。

 

真の崇拝を推し進めるためであるなら、安息日であっても人間の規則であるなら破ってもよい。しかし、真の崇拝を推し進めるためであるなら、命の危険に直面しても、血と偶像崇拝に関する神の律法には従え、と「律法偏重」を擁護している。

 

真の崇拝を推し進めるための規定と言っても、すべて人間が定めた規律である。

人間の作った規定は「空腹」時には放免されるが、「命の危険」時には放免されない、というのだから、「律法偏重」しているのはどちらなのだろうか。

 

パリサイ派の律法解釈の方が、まだ「慈悲」に富んでいるように思えるのだが…

 

 

 

WTでは、「イエス」は「安息日の主」であるのだから、イエスは「千年王国」の「王」でもあるという根拠をこの「安息日問題」の伝承に求めている。

 

「人の子」という称号は、終わりの日におけるイエスの称号の一つであり、「六日」にわたるサタンの支配が終わらせ、「七日目」となる「安息日」は人類に「安息」をもたらす「楽園」である。

その「千年王国」である「安息日」の「主」は「イエス」である、というのである。

 

*** 塔08 2/15 28ページ 7節 マルコによる書の目立った点 ***

2:28 ― イエスが「安息日の主」と呼ばれているのはなぜですか。

『律法は来たるべき良い事柄の影を備えている』と使徒パウロは記しています。(ヘブ 10:1)律法の規定によれば,安息日は労働の六日間の後に来ました。イエスはその日に多くのいやしを行ないました。このことは,サタンの圧政が終わった後にキリストの千年統治のもとで人類が経験する平安な休息やその他の祝福を予表していました。ですから,その王国の王は「安息日の主」でもあります。―マタ 12:8。ルカ 6:5。

 

 

「安息日問題」におけるイエスの「人の子は安息日の主である」という言葉を取りあげ、「人の子」という称号は特定の権威ある存在を指し、「人の子」だけが安息日の規定を超える存在である。

この「人の子」とは「イエスとその弟子たち」で構成されており、それは「神の国」の実現のために奉仕する存在である。

そして「神の国に奉仕するために必要な要求」は、安息日の規定に縛られるものではない。

イエスと弟子たちの活動は、宗教的な意味からすれば、神殿祭司の仕事に匹敵するのであるから、彼らは安息日の規定を超える存在である。

イエスと弟子たちの「神の国宣教」の仕事は、ユダヤ教の神殿での仕事よりも大いなるものだ。

 

 

しかし、マルコの記述を並行と照らし合わせながら読むと、マルコには、そのようなキリスト信仰を読みとれる部分は全く見られないのである。

 

マタイ12:8とルカ6:5の参照聖句を紹介していながら、並行個所のマルコ2:27-28を省いているのは、WT解釈をマルコから読み取ることが無理だからであろう。

 

マタイをマルコに読み込まない限り、特別な意味を持つ「人の子」や「安息日」の存在は読みとれないのである。

 

 

 

WTによれば、安息日は選民イスラエルのために、作られた制度であり、「神の創造的行為」である。

イエスは弟子たちと主に「人の子集団」を形成しようとしていたのであり、「神の創造的行為」は選ばれた民であるイスラエルの真の後継者である「教会」のためにこそなされる。

WTによれば、聖霊によって油注がれた144,000人は、「会衆」を構成する「神の新たな創造物」であり、イエスと共に「神の国を構成する集団」となる、と教えている。

 

 

しかしながら、マタイとルカがマルコを写している以上、「安息日」=「千年王国」という解釈をマルコにまで求めるのは、イエスの言葉の真意を捏造したキリスト信仰の副産物であるように思う。

 

しかも、上の解釈は、「統治体」が聖霊によって導かれて啓示されたオリジナルの解釈ではない。

 

この解釈は、キリスト教の聖書学者であるT.W.Mansonの学説よるものである。

Mark II,27f,in Conjectanea Neotestamentica XI,1947で出された見解である。

 

彼自身も認めているように、この解釈はマタイをマルコに読み込まない限り成立しない解釈である。

 

WTは彼の解釈をJW用語で書き変えながら、神からの啓示と称して自教理に採用したのであろう。

 

高等批評を批判しながら、教理の核は批判する学者の解釈を拝借する。

 

しかもそれを、統治体を通してなされた神による啓示であり、聖霊によって任命されている証拠であると主張するのであるから、何と申しましょうか…。

 

最初に書かれた福音書がマルコではなく、マタイであると、頑なに主張するはずである。

 

とんだ神の聖霊によって任命されている「真理の擁護者、探究者」集団である。