「新しいぶどう酒は、新しい革袋へ」
「古い外衣に新しい継ぎ切れを縫いつけたり、古い皮袋に新しいぶどう酒を入れたりはしない」、というイエスの言葉がある。
このイエスの例えは、「古い皮袋」は、古い律法契約に基づく「ユダヤ教体制」を表わしており、「新しい皮袋」は、新しい契約に基づく「キリスト教体制」を表わしている。
中に入れる「ぶどう酒」はそれぞれの「宗教精神」を表わしている、とWTは解説している。
*** 塔78 8/15 31–32ページ 読者からの質問 ***
● 古い外衣に新しい継ぎ切れを縫いつけたり,古い皮袋に新しいぶどう酒を入れたりする人はいない,と語られたイエスの言葉の要点は何でしたか。
基本的に言って,イエスはキリスト教の精神と,その当時人間の伝統が幅をきかせていたユダヤ教精神とは相いれないことを,そして実際にそれは不可能であることを示されました。
マルコの記録によるとイエスは次のように語られました。「縮んでいない布の継ぎ切れを古い外衣に縫いつける人はいません。もしそうすれば,その満ち満ちた強さがそれを,つまり新しいものが古いものを引っぱり,裂けめはいっそうひどくなります。また,新しいぶどう酒を古い皮袋に入れる人はいません。もしそうすれば,ぶどう酒が袋を破裂させ,袋だけでなく,ぶどう酒も失われます。やはり人びとは新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れるのです」― マルコ 2:21,22。マタイ 9:16,17。ルカ 5:36‐39。
・・・中略・・・
こうしてイエスはご自分の追随者が儀式的な断食のような,ユダヤ教の昔ながらの習慣に従うべきではないことを聞き手が理解できるように助けました。それにイエスの力強い新しい教えは,ユダヤ教の宗教体制にぴったり収まるものではありませんでした。むしろイエスの教えに聞き従った人々は,ユダヤ人のパリサイ派の指導者たちの方法に妥協しようとはせず,イエスの教えの精神的活力を喜ぶことができました。
本当にこの解釈は正しいのだろうか?
三人の筆者はWTと同じように理解していたのであろうか?
参照されている共観福音書を比較してみる。
マルコ2:22
「22また誰も新しい葡萄酒を古いぶどう酒に注いだりしない。そういうことをすれば、新しい酒が革袋を破り、酒は失われ、革袋も駄目になる。新しい葡萄酒は新しい革袋に」。(田川訳)
「22また新しいぶどう酒を古い皮袋に入れる人はいません。もしそうすれば、ぶどう酒が袋を破裂させ、袋だけでなく、ぶどう酒も失われます。やはり、人は新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れるのです」。(NWT)
マタイ9:17
「17また、誰も新しい葡萄酒を古い革袋に注いだりしない。そういうことをすれば、革袋が破れ、酒はこぼれ、革袋も駄目になる。新しい葡萄酒は新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、どちらも保たれる」。(田川訳)
「17また人は、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れることもしません。もしそうすれば、皮袋は張り裂け、ぶどう酒はこぼれ出て、皮袋はだめになります。やはり人は、新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れます。そうすれば、両方とも保たれるのです」。(NWT)
ルカ5:37‐39
「37また、誰も新しい葡萄酒を古い革袋に注いだりしない。そういうことをすれば、新しい酒が革袋を破り、酒はこぼれ、革袋も駄目になる。38新しい葡萄酒は新しい革袋に入れるべきものだ。39また、古い葡萄酒を飲んでから、新しい葡萄酒を欲する者はいない。古いものが良い、と言うのである」。(田川訳)
「37また、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れる人は誰もいません。もしそうするなら、新しいぶどう酒は革袋を破裂させ、それはこぼれ出て、皮袋はだめになります。38新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければならないのです。39新しいぶどう酒を飲んだ人は誰も新しいものを欲しがりません。その人は『古いのはうまい』と言うのです」。(NWT)
まず、共観福音書を並べてみて気付くのは、マタイとルカにはそれぞれの視点からの註解が付記されていることである。
マタイは「新しいぶどう酒は新しい皮袋へ」というイエスの話に続いて「そうすれば両方が保たれる」という適用を註解している。
ルカは「新しいぶどう酒を飲んだ人は、古い葡萄酒の方がよい、と言う」と註解を付記している。
また、マルコの原文にはNWTが訳している「入れるのです」に相当する動詞は付いておらず、体言止めで文が終わっている。
これはおそらくNWTの訳者が、マルコの文にマタイを読み込んだものだろう。
KITには、動詞がないのに、英訳では、people put new wine into new wineskinsと原文ににないputを堂々と( )付きではなく、入れている。
主語のpeopleも原文にはない。
この文の主語は「新しいぶどう酒」であり、直訳は「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」という格言的に言い切った文である。
ちなみにマタイの英訳はpeople put new wine into wineskinsとマルコと全く同じ英訳をしている。
マタイとマルコを原文では異なる文であるのに、これを全く同じに訳したのは、マタイがマルコより先に書かれた福音書であるという主張を守りたいためであろう。
マルコは言い切りの形で文を終わらせている。
それを読んだマタイはマルコの文は動詞が欠けており不完全な文だから、補ってやろうと考えた、と解釈するのが自然である。
マタイが先であるとすれば、マルコはマタイの適用の部分、「そうすれば両方とも保たれる」を削除したことになる。
しかし、マルコの主張は、新しいぶどう酒は新しい皮袋へ入れるべきなのは、古いぶどう酒を保つためではなく、新しいぶどう酒を保つためであり、古いぶどう酒との共存を意識してはいない。
新しい継ぎ布の例えと同様(原文では「新しいものが古いものを」と言う文で一旦切れ、そして裂け目はもっとひどくなる)と言う文が続いている)、新しいものが持つ活動的な力に焦点を当てているのであり、「新しいものが古いものを打ち破って行くのだ」ということを主張している。
マタイの「古いものとの共存」はマルコの意識にはない。
マルコの文脈を読めばそれは明らかである。
つまり、マタイの文には、共存しえない二つの概念が合成されているのである。
マルコの文にはマタイに見られる思想上の矛盾はない。
明らかに、マタイはマルコの文を写しながら、最後に「古いものとの共存=ユダヤ教とキリスト教の融合」という自分の主張を付加したのである。
ルカは、マタイが単に「入れるものだ」と付加したのに対し、さらに「べき」を入れた。
それでも満足しなかったのか、「古いぶどう酒の方がうまい」という当時の定説?の評価を加えた。
そのおかげで、ルカはマルコの文の中身を全く理解していないことを暴露してしまった。
マルコでは、イエスが新しく生じる者が古いものを打ち破って行く力について述べているのだが、ルカではこれを単に新しいものと古いものを一緒に混ぜてはいけない、古いものの方がよい、という趣旨にしてしまった。
それぞれの福音書著者の話を、WT流解釈を適用するとどのようになるだろうか?
「新しいぶどう酒」=「新しく神により是認されたキリスト教精神」、「新しい皮袋」=「キリスト教」という宗教的枠組み→「WT組織」
「古いぶどう酒」=「古い律法契約により導かれたユダヤ教精神」、「古い皮袋」=「ユダヤ教」という宗教的枠組み→「大いなるバビロン」
マルコでは、「新しいぶどう酒は新しい皮袋へ」と言っているだけなので、「古いぶどう酒」との融合は考えていないことになる。
WTの註解のように、「ユダヤ教の宗教体制の枠にぴったり収まり」きれなかった、「イエスの精神活力」が拡大していく、という適用になる。
キリスト教の拡大とユダヤ教の衰退という構図に当てはまることになり、JW的にも違和感はないであろう。
しかし、マルコのイエスは、ユダヤ教との融合は一切考えておらず、純粋にイエスの教え、イエスの生き方、イエスの精神のみでキリスト教は運営されるべきだ、と考えていることを忘れてはならない。
それに対してマタイは、「どちらも両方とも保たれる」ことを基盤にしている。
マタイ福音書の文書構成は、イエスが旧約の預言成就のメシアであることを証明することにある。
当たり前であるが、当時新約聖書は存在せず、キリスト教の理論的支柱は旧約に依存するものであった。
キリスト教はユダヤ教の分派の一つという位置付けでしかなく、ユダヤ教の宗教体制の存在を前提にしていた。
マタイ派の考えるキリスト教とは、ユダヤ教との融合を前提としており、イエスの教えや生き方だけで構成されるキリスト教は存立しえないものであった。
マタイが「両方を保たせる」と付加したのは、ある意味必然だったのだろう。
WT解釈に基づき、マタイを解釈すると、キリスト教はユダヤ教を融合させたものであるにもかかわらず、両方を保つためには、新しいぶどう酒は「新しい皮袋」へ入れる、と言っていることになる。
つまり、新しいぶどう酒と古いぶどう酒は融合させてはならないことになる。
これはおかしなことになる。
「新しい皮袋」であるはずのWT組織の解釈には、独自のものもあるかもしれないが、かなりの部分はキリスト教世界の解釈を拝借したものである。
つまり「古い皮袋」に入っている「古いぶどう酒」が混入しているのである。
信仰の基盤としているはずの「聖書」そのものが、バビロンによる編纂である。
神の是認を受けていない組織の手による「聖書」を神の組織が真理の基盤としている、という奇妙な教えが跋扈することになる。
これでは、「新しい皮袋」には「古いぶどう酒」の素が入っているようなものである。
マタイの聖句には「もしそうすれば、皮袋は張り裂け、ぶどう酒はこぼれ出て、皮袋はだめになります」とありますが・・・。
WT組織が「新しい皮袋」であるなら、皮袋が張り裂ける前に、古いぶどう酒を取り除く必要があるのではないでしょうか。
混ぜてはならない、と言っているのだから、まず全部捨てる必要があるのかもしれませんが・・・。
この譬話に関する新しい光がきらめくことを願っています。
ルカの場合には、「古いものがよい」。となっているのだから、「新しいぶどう酒」である「キリスト教の精神」よりも、「古いぶどう酒」であるユダヤ教の精神の方がよい、と言っていることになる。
これをそのまま現代のWTに適用するのであれば、「WTの組織の精神」よりも「大なるバビロンの精神」の方がよい、という解釈が成立してしまう。
さずがに、これはまずいらしく、ルカの句に関するWTの解釈は、現実のぶどう酒に関しての摂理を述べているとしか出て来ない。
なぜなのだろう・・・。
WTによると、聖書は矛盾していないのだから、共観福音書の同じ例えは同じ意味に解釈できなければならないはずなのであるが・・・。
以下追記
NWTマルコ2
22また新しいぶどう酒を古い皮袋に入れる人はいません。もしそうすれば、ぶどう酒が袋を破裂させ、袋だけでなく、ぶどう酒も失われます。やはり、人は新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れるのです」。
RNWT
22また、新しいぶどう酒を古い革袋に入れる人はいません。もしそうしたら、ぶどう酒のせいで袋が破裂し、ぶどう酒も袋も駄目になってしまいます。やはり、新しいぶどう酒は新しい革袋に入れます。
NWTマタイ9
17また人は、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れることもしません。もしそうすれば、皮袋は張り裂け、ぶどう酒はこぼれ出て、皮袋はだめになります。やはり人は、新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れます。そうすれば、両方とも保たれるのです。
RNWT
17また人は、新しいぶどう酒を古い革袋に入れません。もしそうしたら、革袋は張り裂け、ぶどう酒はこぼれて、革袋は駄目になってしまいます。やはり、新しいぶどう酒は新しい革袋に入れます。そうすれば、両方とも保たれます。
NWTルカ5
37また、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れる人は誰もいません。もしそうするなら、新しいぶどう酒は革袋を破裂させ、それはこぼれ出て、皮袋はだめになります。38新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければならないのです。39新しいぶどう酒を飲んだ人は誰も新しいものを欲しがりません。その人は『古いのはうまい』と言うのです。
RNWT
37また、新しいぶどう酒を古い革袋に入れる人はいません。もしそうしたら、新しいぶどう酒のせいで革袋が破裂し、ぶどう酒はこぼれて、革袋は駄目になってしまいます。38やはり、新しいぶどう酒は新しい革袋に入れなければなりません。39古いぶどう酒を飲んだあとは、誰も新しいものを欲しがりません。『古いものはうまい』と言うのです。
マタイのRNWTは、NWTの「やはり、人は…入れます」の「人は」という無人称的三人称の動詞の主語を削除し、NWTの「そうすれば、両方とも保たれるのです」の同じく無人称的三人称の動詞を「そうすれば、両方とも保たれます」と「…のです」から「…ます」と語尾を同一表現に整えている。
表現の違いだけで、特に意味上の変化は見られない。
マルコのRNWTは、NWTの「…のです」という表現を「…ます」という表現に統一しているのは、マタイと変わらないが、22「もしそうすれば、ぶどう酒が袋を破裂させ、袋だけでなく、ぶどう酒も失われます」に関しては、「もしそうしたら、ぶどう酒のせいで袋が破裂し、ぶどう酒も袋も駄目になってしまいます」と改訳している。
ルカのRNWTもマルコと同じで、NWTの「…のです」という表現を「…ます」という表現に統一させているが、37もしそうするなら、新しいぶどう酒は革袋を破裂させ、それはこぼれ出て、皮袋はだめになります」を「もしそうしたら、新しいぶどう酒のせいで革袋が破裂し、ぶどう酒はこぼれて、革袋は駄目になってしまいます」と改訳している。
大きな違いは、どちらにも、原文にはない「せいで」という強調の副詞を付加していること。
英訳NWTマルコ
Also, nobody puts new wine into old wineskins, if he does, the wine bursts the skins, and wine is lost as well as the skins. But people put new wine into new wineskins.
英訳RNWTマルコ
Also, no one puts new wine into old wineskins, if he does, the wine will burst the skins, and the wine is lost as well as the skins. But new wine is put into new wineskins.
英訳NWTルカ
Moreover, no one puts new wine into old wineskins; but if he does, then the new wine will be burst the wineskins, and it will be spilled out and the wineskins will be ruined.
英訳RNWTルカ
Also, no one puts new wine into old wineskins. If he does, the new wine will be burst the wineskins and it will be spilled out and the wineskins will be ruined.
NWTマルコ英訳では、the wine bursts the skinsという能動態現在の文を、「ぶどう酒が袋を破裂させ」と訳している。
NWTルカ英訳では、the new wine will be burst the wineskinsと言う受動態未来の文を、「新しいぶどう酒は革袋を破裂させ」と訳している。
RNWTマルコ英訳では、the wine will burst the skinsとある能動態未来の文を、「ぶどう酒のせいで袋が破裂し」と訳している。
RNWTルカ英訳では、the new wine will be burst the wineskinsとある受動態未来の文を、「新しいぶどう酒のせいで革袋が破裂し」と訳している。
NWTのマルコとルカでは、態が異なる他動詞の文をどちらも同じく「破裂させ」と能動で訳している。
これは、おそらくルカにマルコを読み込み、どちらも能動で訳し、聖書の一致を担保しようとしたのだろう。
RNWTのマルコとルカでは、態の異なる他動詞の文を同じく「せいで…破裂し」と訳している。
マルコの原文は他動詞の能動態であるから、本来「破裂させ」となるべきところである。
ルカの原文は受動態であるが、RNWTは受動の意味を強調するために「せいで」という副詞を入れたのであろう。
しかし、マルコの能動との整合性を図るために、ルカの受動を「…破裂させられ」ではなく、自動詞であるかのように「せいで…破裂し」と訳したのであろう。
聖書の一致を保つために、RNWTはNWTとは逆に、マルコにルカを持ち込み、どちらも「せいで…破裂し」と訳したのであろう。
しかし、ルカでは「ぶどう酒」が主語であるから、他動詞の受動態を「ぶどう酒が破裂させられ」と訳すと不自然になる。
日本語としては、「ぶどう酒が破裂し」と自動詞的に訳すだけで良い。
ここに、「せいで」という副詞を入れて、「ぶどう酒のせいで破裂し」とすると、意味が微妙に異なってくる。
「せいで」という語を付加したことにより、「古い革袋」を破裂させたのは、「新しいぶどう酒」の「せいで」あり、「新しいぶどう酒」と「古い革袋」を駄目にした責任は、「新しいぶどう酒」にある、と読むことになる。
これを、WT78/8/15,p31-32の解説に従がって、「新しいぶどう酒」=「キリスト教の精神」、「古い革袋」=「ユダヤ教の宗教体制」。
「古いぶどう酒」=「ユダヤ教の精神」、「新しい革袋」=「キリスト教の宗教体制」とすると…
マルコでは、「キリスト教の精神」は、「ユダヤ教の宗教体制」を打ち破ることになるが、どちらも駄目になるのだから、「キリスト教の精神」の「せいで」、同時に「キリスト教の精神」も駄目にする、と言っていることになる。
これでは、純粋な「キリスト教の精神」が存続することはない、と言っていることになる。
確かに「キリスト教の精神」は「ユダヤ教の宗教体制」を打ち破って行くかもしれない。
しかし同時に、「新しいぶどう酒」を「新しい革袋」に入れたとしても、「キリスト教の精神」を駄目にする「キリスト教の精神」が入った「キリスト教の宗教体制」だけが残る事となってしまう。
これを唯一の神の組織と豪語するWT組織に適用し、「新しいぶどう酒」を入れた「新しい革袋」=「キリスト教の宗教体制」→「WT組織の宗教体制」とすると…
「WTのぶどう酒である真理」は、確かに「大いなるバビロンの宗教体制」を打ち破って行くかもしれない。
しかし、同時に「キリスト教の精神」を駄目にする「新しいぶどう酒」が入った「キリスト教の宗教体制」が残るだけの宗教組織となっている、という巨大ブーメランの解釈となってしまう。
ルカもマルコと同じく、「新しいぶどう酒」の「せいで」、「革袋」が破裂し、「ぶどう酒」はこぼれて、「革袋」は駄目になってしまう。
だから「新しいぶどう酒」は「新しい革袋」に入れるべきである、というのである。
マルコと同じ、巨大ブーメランとなる構造であるが、それだけにはとどまらなくなっている。
「古いぶどう酒」を飲んだあとは、誰も新しいものを欲しがらず、「古いものはうまい」と言う、と続いている。
これを、WT78/8/15,p31-32の解説に従がって、「新しいぶどう酒」=「キリスト教の精神」、「古い革袋」=「ユダヤ教の宗教体制」。
「古いぶどう酒」=「ユダヤ教の精神」、「新しい革袋」=「キリスト教の宗教体制」とすると…
「ユダヤ教の精神」を飲んだあとは、「キリスト教の精神」はまずくて、誰も「キリスト教の精神」を欲しがらない、ということになる。
「新しいぶどう酒」のせいで、「古い革袋」が破裂したというのだから、「古い革袋」を破裂させた責任は「新しいぶどう酒」にある、と暗に「新しいぶどう酒」を批判していることになる。
「新しいぶどう酒」を「新しい革袋」に入れて、「古い革袋」を破裂させなければ、「古いぶどう酒」が「うまく」、「新しいぶどう酒」が「まずい」ことを知られなかったはずである、と…
これでは、「ユダヤ教の精神」が「うまい」ことを知っているのだが、「キリスト教の宗教体制」に入った者たちには、「ユダヤ教の精神」が「うまい」ことを知られてはならない、と言っているようなものである。
信者を「新しい革袋」である「キリスト教の宗教体制」にとどめておくためには、「古くてうまいぶどう酒」である「ユダヤ教の精神」を飲ませてはならず、「新しくてまずいキリスト教の精神」だけを飲ませ続けなければならない、ということになる。
これを、「新しい革袋」=「キリスト教の宗教体制」→「WT組織の宗教体制」として適用すると…
「WT組織の宗教体制」は、「大いなるバビロンの精神」である「宗教的権威主義」や「この世の精神」が「うまい」ものであることを決して知られてはならない。
他方、WTが教える、「神と王国を第一に」、「従順」、「愛と平和」等の「キリスト教の精神」が「まずい」ものであることも知られてはならない。
JW信者を組織に入れておくには、神にすべてを委ね、従順に、愛と平和を実践するならば、世界も自分も救済できるという「まずい」幻想を「うまい」と錯覚させ続ける必要がある、ということになる。
一度、「古いぶどう酒」が「うまい」ことを知ってしまえば、誰も「新しいぶどう酒」を欲しがることはないのだから…
とすれば、WT組織の宗教指導者たちは、「古いぶどう酒」が「うまい」ものであり、「新しいぶどう酒」が「まずい」ことを知っているのだろう。
これでは、真の「キリスト教」を標榜しておきながら、裏では「キリスト教の精神」を否定し、JW信者には幻想でしかない「まずい酒」を飲ませ、指導者たちは「この世の精神」から、「うまい酒」を飲もうとしているようなものであろう。
WTの「新しいぶどう酒のせいで」とする聖書解釈は、超特大ブーメランとなって、WTの実態を見事に映し出しているのであろうか…。